第二話 騎士たちの宴・1

 騎士に憧れをもつ人間は多い。その者たちは総じて、「騎士は国の平和と安全を守る盾である」と言う。間違いではない。この国の騎士の定義というのがまさにそれだからだ。しかし、本当に全員が全員、美しく盾になろうという崇高な志を持っているかというと、そうでもない。
 結局、騎士も人なのだ。
――扉が叩かれたことに気付いた彼は、思考におぼれるのをやめてその目を開いた。ちなみに思考というのは、今日の仕事上がりに何をするかというものである。そんな彼が叩かれた扉を、目を細めて睨んでいると、やがて向こう側からくぐもった声が聞こえてきた。
「ジェイド、私だ」
「ああ……ニナか。入れよ」
 ジェイドと呼ばれた彼は来訪者の正体を知ると、名前の由来にもなっているだろう翡翠色の瞳で、入ってくる者を見やる。
 ジェイドもよく知るその来訪者は、ニナという名の女騎士だ。静かだが、その中に猛々しさを持っており、まったくもって彼の思うような女性らしさがない。顔は整っているのだが。
 そのニナは面倒くさそうな騎士の前まで来ると開口一番こう言った。
「残業しないつもりか?」
「……なんで分かった」
 言いつつ、男の顔に動揺の色はない。この女騎士に思考を読まれることは別段珍しいことではないのだ。ジェイドがおどけて返すと、ニナはやはりか、と呟いてから薄く笑う。
「そんなおまえに残念なお知らせがある」
 微笑を浮かべて宣告するニナを見て、ジェイドはあからさまに顔をしかめた。いつも最低限のことしか言わない彼女がこんなことを口走るときは、大抵ろくなことが起きない。
 果たして、男の予感は的中することとなった。ニナは無表情に戻って続ける。
「東の森に妙な獣の大群が出現した、らしい」
 このときジェイドが考えたのは、「ああ、仕事上がりの予定はパアだな」ということだった。

「ソラー! 薪、持ってきたよ」
「おっす。そこに置いといて」
 もう何度となく交わされた言葉は、やはり今日も青空の下を飛び交った。
 レオフを出てから一週間。二人の旅人、ソラとリネの旅路はおおむね平和なものだった。野生の猿に食料を奪われて醜いほどの追いかけっこを披露したことも、凶暴化した野獣との一晩に及ぶ攻防も、日常茶飯事なのでいまさらトラブルには数えない。
「それにしても、なんか最近凶暴なワンちゃんが多いよね」
 火をおこしながらソラに尋ねたのは、言うまでもなくリネである。彼女はいつも獣のことを「ワンちゃん」と呼ぶ。その意図は現在に至るまで一切不明のままだ。
「そうだなー。もう、何回食われかけたかさすがの俺でも分からん」
 ソラがおどけて言うと、リネは途端に深刻な顔になる。彼女はやがて小さな声で言った。
「なんでだろうね」
 不安そう、という言葉はしっくりこない。むしろ深く考え込んでいるような感じだった。リネは時折、こんなふうに子供とは思えないような姿を見せることがある。一方で「こんな境遇なら仕方ない」と考えつつも、他方で言いようのない不安を覚えるソラである。
 しかし彼は、それはおくびにも出さないまま頭をかいた。
「俺にはさすがにそこまで見当がつかない。けど、この間の幻獣騒ぎが関わってるんじゃないかとは思う」
「うん、私も」
 水色の髪の少女は静かな声で同意してくる。少年は黙って視線を落とすと、相棒が拾ってきた薪を持ち上げた。が、そこでふと手を止める。
「……ん?」
 顔を上げ、眉をひそめた。
「どうしたの、ソラ」
 文字通り獣の五感を持つ少年の異常に気がついたのか、リネも引き締まった顔で立ち上がった。
 しばらく、場には重苦しい静寂が流れる。だが、一組の旅人が何も言わずに草原を見据えているとそのうちかすかな音が聞こえてきた。
「何? どっかでがけ崩れでも起きたの?」
 どこか間抜けな声を上げたのはリネだ。「アホ。この辺に崖なんてない」とソラは鋭いツッコミを入れながらも、厳しい表情を崩さない。その間にも緑のじゅうたんの上を音が駆けてくる。最初こそがけ崩れにも似たそれだったが、近づいてくるにつれ大量の足音であることが知れる。
 その事実を察知した瞬間、ソラが動いた。
「これは!」
 叫んで銃を引き抜く。かたわらの少女が飛び上がった。
「何が来たの、ソラ」
 問いかけの声は妙に冷静だったが、
「――獣。野獣だ、リネ」
 すっと目を見開いたソラが言うと、リネは音もなく構えて彼同様、銃を抜いた。
――やがて地平線の先にうっすらと黒い影が現れる。それが終われば接近は早いものだった。あっという間に影は膨れ、それの正体が狼のような姿形の野獣であることが判明する。
「うわあ~。いっぱいいるね」
 緊張感の欠片もない声で言う少女は、一方でしっかりと銃口を彼らに向けていた。
「めんどくさい」
 肩をすくめ呟いたソラはそっと引き金に手をかけた。それから横目で少女を見ると、行くぞ、といやに小さな号令をかける。
 うなり声はまもなく、威嚇の声に変わった。それは波紋のように伝染した後、少しの間均衡を形作った。しかしそれは、ほんのわずかのことである。ゆっくりと、二人の旅人を取り囲んだ獣たち。そのうちの一頭が、低いうなり声とともに背を丸めて両足に力をこめると、せっかく作られた均衡は破られた。
 合図となったのは遠吠えのような一声。それとともに、獣たちは一斉に獲物に向かって飛びかかった。
「来たぞ!」
 不敵な笑みのもとに放たれた言葉。それにより自分を奮い立たせたソラは、素早く狙いを定めて銃の引き金を引いた。乾いた音と共に鉄の筒を飛び出した弾丸は、すぐに先の獣へと命中する。獣はもんどりうって倒れ、それから動かなくなった。
 ソラはすぐさま次の一頭に狙いを定めた。敵は多数、油断してはならないし、そんな暇はない。撃っては弾丸を詰め替えるという作業をいくばくか繰り返した少年は、やがて愚痴をこぼした。
「おーおー。肉食獣が虫みたいにうじゃうじゃ湧きでてきやがる」
「さすがにきっついよ、これは!」  目の前には進撃を止めない獣の軍勢。横にはそうぼやきながら銃を扱う少女の姿。それらを目で追ったソラは、次いである方向を見て目を細めた。
「しかもこれは、嫌というほど見覚えのある光景だぞ」
 視線の先には、先程撃った生物の体が横たわっている。生物は、傷口から黒いものを噴きあげながら死んでいた。
「レオフにいた幻獣さんを思い出すね!」
 叫んだリネは、銃をソラの方に放り投げた。彼女の言葉にうなずいたソラは同時に、宙を舞った武器を空いている方の手で受けとめる。
「こりゃどーも」
 おどけてそう口にしてから彼が二丁の拳銃を構えなおしたとき、リネは棒手裏剣を抜き放っていた。
「こっちの方が使いやすいみたいなんだ」
 軽口を叩きながら、鮮やかな手並みで数体を屠った少女は、少年に厳しい顔でささやく。
「どういうことだろう?」
「さあな。謎は深まるばかりだ」
 黒いしぶきを噴き出す生物に出会ったのは、レオフ以来である。その頻度から考えて偶然、あるいは自然発生という見方は当然できる。だが。
「どーも、誰かの意図を感じるんだよなあ」
 そう呟くソラの横で、また二頭の獣が倒れ伏す。とめどなく吹きだす正体不明の飛沫のおかげで、いつのまにか周囲は薄黒く染まっていた。黒い霧の中、再び標的に銃口を向けたソラはしかし、そこで自分の体が大きく傾くのを感じた。どういうわけか頭ががんがんして意識もはっきりしない。
「ソラっ!!」
 少し離れたところからリネの声が飛んでくる。はっとしたソラが顔を上げると、正気を失った獣の牙がこちらを向いていた。
「こなくそっ!」
 やけになって叫んだ彼はすんでのところで発砲し、どうにか負傷を免れる。
 くずおれる獣の体躯を見て一息ついた少年の頭上を、風を切って何かが飛んでいった。天をつんざかんばかりの低い断末魔から、それがリネの投げた棒手裏剣だと悟る。実際、すぐに正面から心配そうな顔をしたリネが駆けてきた。
「何かあったの!?」
 いつでも攻撃できるよう、棒手裏剣を構える彼女は妙に勇ましい。その姿を見たソラは少し眉をひそめて口を開いた。
「いや、なんでもない」
「……ソラ」
 直後、厳しい顔つきのリネに名を呼ばれたが、彼は取り合わなかった。代わりに、残りわずかな弾丸を銃に装填しながら呟く。
「向こうはいつまでもうじゃうじゃ出てくるが、こちらは物の面でも体力の面でも限界がある」
 少女はそれを聞いて押し黙った。年相応な態度にソラは苦笑する。
「ま、いざとなったら俺の力で押し切って逃げるさ」
 だが、このときに変化は起きた。ソラの鋭敏な耳がある音を捉えたのである。黒い靄を潜り抜け、その音は段々と近づいてきた。
「馬蹄? それに、人の声も」
「え?」
 リネの反問する声は獣の咆哮と徐々に大きくなる謎の音にかき消される。更にその直後、少年の耳がまた別の音を察知し、刹那彼は動いた。
「下がれ!」
 叫び、困惑する少女の腕をとって大きく飛び退く。
 彼が鋭く靄をにらんでいると、彼らの足元に一瞬だけ影が差した。それから五秒と経たないうちに、ごうっ、と音を立てながら、風を切って棒状のものが飛来する。ただ物理法則に従って下に突き刺さったそれは、その場にいた獣を勢いよく串刺しにした。獣はやはり、黒いしぶきを上げて絶命する。
「……槍?」
 黒く染め上げられる棒を見て、リネが訝しそうに呟く。一方、ソラは早くもその槍が「何」であるかを悟り、にやりと笑った。
「良かったな、リネ。俺たちが無茶をする必要はなくなったみたいだ」
 彼の言葉にリネが何かを返す前に、二人の頭上を大量の弓矢がかすめる。黒を切り裂いて飛んだ矢のいくつかは、獣の頭や胴に深々と突き刺さり、彼らを悶絶させた。
「ねえ、これってもしかして」
 頭を上げられないリネはわずかに眉をひそめる。同じ状況のソラは、矢が飛んできた方向を見てあっけらかんと引きとった。
「ああ。――騎士団だ」
 黒い靄が微かに揺らぎ、人影が染み出す。それはやがて形と明瞭な色彩を伴って二人の前に現れた。ソラは、堂々と立つ人を見上げる。
「久し振りだな。隊長さんよ」
 そして、騎士相手とは思えないほど気安く挨拶をした。