第三話 唯一の友・4

「や、おはよう二人とも」
 日の出前に宿屋を出ると、入口にタスクが立っていた。彼はいつもの穏やかな笑顔で、小さな鞄を見せびらかしてくる。準備はできている、と言われたような気がして、ソラは肩をすくめた。
「おはようタスク。早起きは相変わらずだな」
「おはよー……」
 今にもとろけそうな朝の挨拶とともに、おぼつかない足取りでリネが出てくる。彼女は寝ぼけ眼でタスクを見て、欠伸を堪えた。楽しそうに目を細めたタスクは、町の出口の方につま先を向けた。
「さあ、それじゃあさっそく行こうか」
 いつもの笑顔の彼はこのとき、ことさら明るい声で二人を促した。誰がどう見ても快活な少年そもものの姿に、しかしこのときのソラは、微かな緊張の気配を感じたのである。

 緑の中に辛うじて見える茶色い道を慎重に進む。道の脇から伸びた草が、たびたび足をくすぐった。
 町を出て三十分は経っただろうか。少し前までは石で整備された白い道があったのだが、森へ向かうためにこの街道を逸れたところ、この獣道のような土の地面を歩かなければならなくなった。ただし、ソラを筆頭に三人はこの手の環境に慣れているため、今のところ大した問題もなく進んでいる。
「……にしても、なんでまた幻獣の情報なんて集めているんだ?」
 草をそっとかき分けながら、ソラは横目でタスクを見る。彼は楽しそうに道の先を見ながら、なんでもないことのように答えた。
「最近、ものすごく凶暴な幻獣が人を襲うっていう話を、少しだけど聞くようになったんだ。ごく普通の野獣でさえもすごく殺気立ってるっていうのに、参るよね。それで困っている人たちのために僕は少しでも情報を提供したいんだよ」
 いつも通りの表情で語る彼を見て、ソラとリネは互いの顔を見合わせた。
――凶暴な獣。それはすなわち魔獣だろうという意見が、二人の間で合致する。
「それにね、気になったんだ」
 ふと、タスクがそう言う。虚を突かれた二人は、それぞれに目を瞬いた。
「気になったって、何が」
「決まってるじゃないか」
 ソラが訊くと、タスクは得意気に胸を張る。
「君のお母さん――フウナおばさんの同胞っていうのが、いったいどういうひとたちなのか」
 ソラはぽかんとした。この場合人じゃなくて獣だったね、というタスクのおどけた言葉が、ほとんど耳に入らなかったほどである。自分の家族でもない奴のことを気にするなんて――唖然とした彼は、なぜか楽しそうなリネと、にこやかな友人を一瞥すると、堪え切れなくなって吹きだした。
「……そ、そんな理由で殺されるかもしれない場所についていくなんて……く、くくっ」
「なんだよ。君の動機だって似たようなものだろうに」
「いや、それにしては状況が違いすぎ……あははっ!」
 会話の途中で失笑したソラに、タスクがわざと怒ったような目を向け「もう、笑いすぎ!」と言い放つ。しかし、震えているソラに対しての効果は薄かった。目を逸らしたタスクはだが、直後に瞠目する。そうして、旅人たちの方を振り返った。
「ほら、二人とも。見えてきたよ」
 ソラとリネは首をかしげて、タスクの指さした方向を見る。そして、驚きの声を上げた。
「あっ!」
「もしかして、あれが……」
 情報屋の少年は、どこか怪しい笑みを浮かべる。
「うん。あれこそが、噂の森だ」
 彼らの向かう先には、こんもりと緑が茂っていた。リネが息をのみ、タスクの顔も少しだけ緊張しているようだ。そんな中でソラは歩を進めながら深く息を吸って、瞠目する。
 恐ろしくて、懐かしい。そんな力の波動が、森からひしひしと伝わってくるようである。ソラはしばしの間、森の波動に身をゆだねていた。

 恐ろしく静かな場所である。鳥の鳴き声も、葉ずれの音もない。生命の鼓動を忘れてしまいそうな渓谷に、突如として蒼白い光が現れた。それは徐々に薄れていき、やがて内から人の姿が浮き彫りになっていく。光はそうして、彼女を残して消えた。
――女は、自分の胸元を確かめた。胸から腹にかけて大きく開いた穴からは、静かに血の滴が滴っている。女は息を止めた。そのままその場に崩れ落ちる。
「やられたのか」
 ふいに別の声が空間を打った。気味が悪くなるほど無音だった場所に、声の余韻はいつまでも残る。女は不気味な声を聞いても、一切動揺しなかった。それどころか、喉の奥でくつくつと笑ったのである。
「ええ。並みの魔導士じゃないわよ、あの小娘」
「そのことは、嫌というほど分かった。あれを制することができるのは、恐らく『奴』だけだろう」
 まるで近くで見ていたかのような物言いに、女は眉をひそめる。――否、実際のところ、彼は見ていたに違いないのだ。思わず「性悪ね」と吐き捨てる。だが、相手はそんな罵倒などはじめからないかのように、平然と沈黙している。いつの間にか彼は、その場に立っていた。
「そう言えば、『奴』はどうしているの?」
「観察を続けている」
 素っ気なく、不機嫌そうな答え。それに対し、むしろ女の方が不快感をあらわにした。
「人に働かせるだけ働かせて、自分は一歩も動かないなんてね」
 忌々しげに吐き捨てる彼女を見て、相手はすぐに何かを言おうとはしなかった。いびつに切り取られた空を無言で仰ぎ、そしてようやく口を開いたのである。
「そればかりは仕方あるまい。奴がひと暴れしただけで、大陸の三分の一が吹き飛ぶといわれているからな」
「ふん」
 淡々と言われても、女の中に生まれた苛立ちは収まらない。それどころか膨張するばかりであった。本人にそのつもりはなかろうが、『奴』を弁護するような言動が気に食わないのだ。だが、相手はそのようなことにまったく頓着せず、女を促してくる。
「とりあえず戻るぞ。『奴』を怒らせたら面倒だからな」
この点については女も同感だったので、素直にうなずいた。そうしてふと、自分の腹を見下ろす。傷はまだ、穴のようにその場にぽっかりと開いていた。だが、痛みも体の異常も感じない。それこそが常である。
 女は途端に自分の傷がどうでもよくなり、すぐにそれを放っておくと決めると、いつの間にかいなくなっていた同胞を追って、渓谷から姿を消した。