第三話 唯一の友・3

 リネが部屋にやってきたのは、ソラが荷物の整理をほとんど終えた頃だった。
「ごめんごめん、遅くなっちゃった!」
 無邪気な笑顔でそう言って入ってきた少女に対し、ソラは呆れのこもった視線を向ける。だが、彼女はそれを歯牙にもかけず、いつものようにベッドへ飛びこんだ。
 荷物を脇にどけたソラは、ふと思い立って腰に取り付けているホルスターから銃を取り出す。荷物の中から道具類を引っ張り出し、いきなり銃の掃除を始めた。
 通り過ぎる無音の時。ただいつからか、金属の音と秒針の音だけが耳につくようになる。弾倉を取りだしたソラは、ふともう一つの寝台を見た。寝転がる少女は何も言わない。だが、ときどき彼の方をちらちらと見てきていた。友の顔を思い浮かべた彼は、一瞬だけ天を仰いだ。
「なあ、リネ」
「……なあに? ソラ」
「これは、独り言なんだけどな――」
 そう言うと、ソラはまた銃の掃除に取り掛かる。
「俺はその昔、一人で街を歩くことを、ほとんど許されてこなかった。なぜかってーと、それを許してしまえば、俺がたちまち街の人間から攻撃を受けてしまうからだったんだけどな」
 リネが目をみはって、飛び跳ねるように体を起こした。
「生粋の幻獣種族だった俺の母親は、自分の立場をよく分かってたんだよ」
「立場って?」
「自分がどちらの社会でも咎人であること。街で信頼されていた親父がいたから、そこに住めたってこと、さ」
 嘲るような答が返ると、リネは沈黙してわずかにうなだれた。ソラは掃除の手も語る口も止めない。
「まあ、そんな環境で育った俺も、タスクと出会えたことで、多少人間関係が広がった。でも、そんな矢先、母さんが亡くなった」
 布を動かす手が、一瞬だけ止まる。ソラは瞑目した。
 赤い血。薄汚れた長衣。傷ついた肌。軽薄な笑み――
 幾多の記憶は、出来の悪い映像のように、途切れ途切れによみがえる。
「その日、わけあって外に出ていた母さんは、ぼろぼろになって帰ってきた。そして、家の入口で倒れて、そのまま血だまりの中で息を引き取った」
「な、なんで……?」
「さあな。理由は分かっていない。多分、人間か幻獣のどちらかにやられたんだろうけど」
 そう口にしながらも、しかしソラは覚えていた。母の背に、爪でひっかいたような大きな傷があったことを。それだけ幻獣たちにとってフウナは忌々しい存在だったということだろう。だが、それも今となっては瑣末なことでしかなく、ソラの中に残っているのは母親が死んだという事実と少しの記憶だけなのだ。
「そうして、残ったのは親父と俺だけだった。毎日ひたすらに生きた。まあそれでも陽気な親父との生活は楽しかったし、好きだったぞ。タスクもいたし」
 男三人で下らない話をしていた頃の思い出が、色あせた姿でよみがえる。少年は遠くを見るような目で天を仰いだ。少女がどんな顔をしているのか、あえて見ようとはしなかった。
「でも、そんな日々だってそう長くは続かなかった。親父が死んだんだ。多分ありゃ、少し入ってた幻獣の血が体に負担をかけてたんだろ。で、そしたらどうなったかというと……街の人間たちは、残った俺に敵意を向けてきた」
 息をのむ音がする。ソラは苦笑した。
「考えてみれば当然だよ。俺たち一家は、親父が頼られる奴だったから生きのびられたにすぎない。本人が死んだんだから、息子の俺に親切にしてやる道理はないってわけさ」
 少年は言いながら、こみあげてくるほろ苦さを飲みこんで目を閉じる。人として、自らと大きく違う他人を恐れるのは自然なことだった。幻獣種族を嫌うことと、害獣を排除することは、彼らにとっては同一のことだろうと考え、憎しみを諦観に変える。彼は、それを繰り返していた。
「最終的に俺は、街の人間に殺されそうになったんだ。どうにかそこから逃げのびたけど、もう故郷に帰れるような状態じゃなかった。だから、形見の銃とわずかな荷物を手に旅を始めた」
 ソラは、きれいになった銃に弾丸をひとつずつ詰めていく。もう幾度となく繰り返してきた作業なので、その手際は鮮やかなものだった。
 整備を終えたソラは切なく微笑む。それは回顧の終わりを意味するものだ。
 リネは視線を寝台の上の白い布に落としている。
――今の話を聞いてどう思ったか、ソラは問い正すつもりはなかった。客観的意見をいくら聞いたところで現実は動かない。今までの「独り言」はすべて、そんな意味のない昔話だ。
「似てるね」
 ふいに、少女が言った。少年は顔を上げる。
「うん?」
「だから、似てるの。私とソラが」
 リネはそう言いなおすと、いつものように無邪気な笑顔を咲かせる。ソラは口元をほころばせると、密かに嘆息した。
「ソラ。私のこれも、独り言なんだけどさ」
 何気なくいった彼女は、寝台に転がった。そして大きく手を伸ばす。
「私、あのとき嬉しかったんだ。ソラに国から連れ出してもらったあのとき。私も、もう家には帰れないけど、こうやって旅する生活は好きだよ。今の方が、昔より楽しい」
 子供とは思えないほど穏やかな口調で、彼女は語る。しかしその後、何事もなかったかのようにごろごろと転がり始めた。少年は呆れてそれでも微笑んで、腰のホルスターを軽く叩く。
「俺も、今の生活は好きだよ」
 そして、誰にともなく呟いた。

「大丈夫か?」
 ふいに呼ばれ、ソラは我に返った。声のした方に目を向けると、たったひとりの友達の、憂いを帯びた顔がある。彼は茫洋とした顔のままうなずいた。
 だが、突然肩に鈍痛が走る。驚いて見てみれば、左肩が薄く裂けていて、さらにそこから紅い血が染み出していた。自分の傷を無感動に眺める少年に何を思ったのか、彼の友人は軽く眉を寄せる。そして、自分たちが走ってきたであろう細い道を振り返った。
「びっくりしたよ。まさか、みんながあんな直接的な手段に訴えるとは」
 彼の独白とも語りともつかない言葉を聞いて、ソラはようやく思い出した。先程まで街の住人たちに取り囲まれており、散々ののしられた挙句、刺殺されかかったのだ。だが、それの意味するところを知っても、ソラの心に揺らぎが生まれることはなかった。心はひたすらに、凍てついた湖のごとく冷え切っている。
「なんで、逃げなかったのさ」
 友人はそう訊いてきた。ソラは暗い瞳を彼に向ける。
「"異物"を恐れるのは、本能的には正しいことだよ。おれは、きみのような人のことも、街のみんなのような人々のことも、間違いだなんて言うつもりはない。けど、肯定もしない」
 幼子とは思えないような言葉の数々は、自然と口から滑り出てきた。一部の人からは気味悪がられるような態度をとられて、しかし友人は苦く微笑しただけである。
 しばし薄っぺらい沈黙が二人の間を通り抜ける。やがて友人が切り出した。
「ソラ、僕の家に来なよ」
 明るい申し出は、まるで遊びにでも誘うかのような何気ない響きをもって、ソラのもとに届いた。彼は、少しの間考え込むような素振りを見せたが、そのうちゆっくりと首を振る。
「ありがとう。でも、おれはどこにも行かないよ」
 顔を上げて告げる様子は、恐ろしいまでに淡々としていた。友人の表情が引き締まる。
「おれは、旅に出る」
 茶色い瞳が大きく見開かれた。久し振りに見る相手の驚愕の表情に、ソラはようやく苦いながらも笑みを浮かべる。友人の表情は、対照的にゆがんだ。
「旅に出るって……荷物や武器はどうする気?」
「武器は父さんが使っていた銃を持っていく。お金や携帯食料もたくわえがあるから、しばらくは大丈夫だよ」
「……本気かい?」
 相手の顔色をうかがうような、慎重な問いかけ。ソラはそれに対して、とても穏やかな表情で答えた。
「本気だよ。おれがここにいても、みんなの人生を壊してしまうだけだ」
 友人が、何かを言おうとしていたようだが、やがて形のいい眉を寄せながら口を閉ざした。少年は彼を一瞥し、それから家の方角へとつま先を向ける。
「本当にありがとう、タスク。――さよなら」
 相手を見て端的に告げると、歩きだす。今度こそ振り返ることはしなかった。

 夜の闇に支配されている部屋には、まるで黒の中に出来た染みのように小さな光が存在した。ランプの中で静かに揺れる炎は、周囲を仄かに照らし出している。どこまでも続く果てしない静寂のうちで、時折そこに紡がれるようにして、紙をめくる音が響いていた。
「タスク」
 声は、凪いでいた水面に波紋を広げる。闇夜の中にただ一人いた少年は、声がした方――窓の方を、ふと見た。そこには、紺色に染まった友の顔がある。
「他の誰かに見つかったら、通報されるよ」
「大丈夫。そうならないように来たからな」
「まったく、君ってやつは……」
 応酬の後に肩をすくめたタスクは、苦笑して窓を開ける。黒い髪の少年はひらりと舞うと、音もなく部屋の中に着地した。
「そういうところは、まったく変わってないんだね」
「おまえこそ、仕事を始めてちょっとはまともになったかと思ったのに、変わってない」
 意地の悪い軽口を叩きあった二人は、それから小さく吹きだした。喉の奥でこらえるように笑ったあと、ソラがひょいとタスクの横から机をのぞきこむ。
「何、読んでるんだよ」
 ランプの明かりで淡い黄色に染まっている机には、古ぼけて茶色くなった本が開いて置いてある。タスクは微笑んで、頁の表面を軽く撫でた。
「これは、魔女のお話さ」
「魔女?」
 ソラは訝しげに首をかしげている。タスクは一度うなずいた。
 硬い文章でつづられているこれは、物語ではなく記録の書だ。だが、実際は眉唾物の話ばかりが載っている。
「魔女は古の時代から現在に至るまで存在しているといわれているけど、詳しいことは何も分かっていないんだ。そのせいか、現在はおとぎ話の中の存在として認知されている」
 日照りが続いた国に雨を降らせる。戦争を一瞬で終わらせる。住処に踏み入った人間を殺す。真偽不明の言い伝えは、やがて寝物語となっていった。
「実際俺も、おとぎ話だと思ってたんだが」
「そりゃ、仕方ないさ」
 タスクは友の正直な反応に失笑する。だがそもそも、タスクとて魔女の存在を心から信じているわけではないのだ。情報屋を生業とする少年は、愉しそうに本の頁をめくっていく。
「でも、なんかそそられるだろ? 彼女たちみたいな、謎に満ちたものって」
 彼の怪しく言う様に何を思ったのか、ソラは眉間にしわをよせた。タスクはその変化を無視して、自分の机の引き出しを開け、紙束を取り出す。それを、どこか感慨深げに眺めた。
「それにさ、幻獣について調べていたら、興味深い結果が出たんだ」
「なんだよ、それ」
 ソラは胡散臭そうに訊いてくる。タスクは、この年頃の少年とは思えないほど不敵に微笑んで、紙を一枚めくる。走り書きされた文章の一節を、声高に読み上げた。
「『幻獣種族と魔女は、かつて交流していた可能性がある』」
 ソラが瞠目し、息をのむ。
 机の上では、古びた記録書が茫洋とした灯火に照らされていた。