第六話 月夜・4

 鏡は回転しながら宙を舞い、月光を反射してチカチカと光る。
「や、やった……」
 震える声が、夜に落ちる。喜びに満ちた声が誰のものか、誰にもわからなかった。
 大きく息を吐いたソラは、じりじりと後退しながら正面をうかがう。思わぬ形で鏡を奪われた『彼女』は、魂が抜けたかのように放心していた。鏡が先か『彼女』が先か――少年は考える。だが、思考は、空気の音にさえぎられた。
 ソラが音のする方を見たとき、不思議なことが起きた。
 落下を始めていた鏡が、急にその速度をあげる。鏡はまるで吸いこまれるかのように、湖の中に消えた。その瞬間には、水音もせず、水しぶきも立たない。ただ、鏡がなくなって、湖が凪いだ。
「ええっ!? な、なに!?」
 素っ頓狂な声をあげたのはリネだったが、ソラも青年も叫びたいのは同じだ。状況に頭がついていかない。そして、彼らが落ちつくより先に、更なる変化は起きた。突然、湖から一筋の光がのびたのである。天を貫く光は、一瞬まばゆく輝いて、あたり一面をまっさおに染めると、しぼんで消えた。
 闇の戻った湖畔で、三人は呆然とする。
「い、今のは……いったい、なんだったんでしょうか……」
「さあ……?」
 青年に問いかけられたソラは、首をかしげる。むしろ彼が訊きたいくらいだった。
 草が鳴って、気まずい空気を夜に散らす。誰もが息をのんで、音のした方へ目を巡らせた。乾いた草の上に、青年の連れの『彼女』がうつぶせで倒れている。三人は、誰からともなく『彼女』のもとへ駆け寄った。
「ハイネ!」
 叫んだ青年が、華奢な体を抱き上げる。かすかだが呼吸の音がして、胸も上下している。ソラと青年は、同時に肩の力を抜いた。
「眠っているだけみたいですね。大丈夫、安静にしていれば目を覚ましますよ」
 いつになるかはわかりませんが、という言葉を、ソラはすんでのところでのみこんだ。リネが笑顔になるのと入れ替わりに、眉をひそめる。
「さて、問題は……あれだな」
 彼は、すっかり静かになった湖を見やった。

「なかった」
 ソラの短い報告に、リネと青年が目を丸くする。
「えっ……?」
「どういうこと、ソラ」
「湖のどこにも、鏡がなかったんだよ」
 ソラは湿った髪をぼろ布でふきながら、ゆっくりと言いなおした。それでも二人はまだ唖然としている。無理もない、にわかに信じがたいのは、彼も同じなのだから。
 ややして、リネが身を乗り出した。
「ほ、ほんとうになかったの?」
「すぐに湖に潜ったんですよね」
 二人いっぺんに詰め寄られた少年は、悪くもないのにたじろいで目を泳がせた。とりあえず離れろ、と彼らを押しのけてから、近くの椅子に腰かける。水に入ったからか、やけに体がだるかった。
「ええ。できるだけ湖底の隅々まで探したんですけど、鏡はどこにもなかったんです」
――彼らが今いるのは、ポルトリートの宿屋の、青年たちが泊まっている部屋だ。『彼女』の無事を確認してすぐ、青年とリネには『彼女』を連れて戻ってもらい、ソラは一人で湖に潜って手鏡を探すことにしたのである。だが、いくら探しても手鏡は見当たらず、彼一人がやや遅れて宿屋に戻り、今に至っていた。
「あー! 結局、鏡の謎は、謎のままかー!」
 リネが頭を抱えてのけぞり、そのまま後ろの寝台に転がった。ソラは相棒の子どもっぽいしぐさに苦笑するも、その笑みはすぐに消える。そばの椅子の上で神妙な顔をしている青年に気づいた彼は、小声で呼びかけた。弾かれたように顔をあげた青年に、ほほ笑んでみせる。
「確かに、すっきりしないところはありますけど……とりあえずあの方は生きて戻ってこられたんです。今はそれでも、じゅうぶんだと思います。鏡の謎は、これからいくらでも、調べられますし」
 あのあと『彼女』の様子を詳しく見たが、どうやら本当に眠っているだけらしい。今のところ、鏡の影響で精神が侵された様子もない。もっともそれは、目ざめてみなければ断言できるところでもないのだが。ともかく『彼女』の命は助かった。だからソラは、青年に安心してもらいたかったのだ。
 青年は力なく口を開けたまま少年を見ていたが、ソラが笑みを深めると、「そうですね」とつられたように顔をほころばせた。
「あの、ありがとうございました。急なお願いにもかかわらず、手を貸していただいて」
 彼は、深ぶかと頭を下げる。あまりに丁寧にお礼をされて、ソラもリネも戸惑ってしまった。顔を見合わせたあと、二人は顔の前で手を振った。
「お礼なんていいよー」
「そうですよ。俺たちも、打算ありきで協力していましたしね」
 青年は、目を瞬いた。
「打算、ですか?」
 心底意外だと、小さな両目が語っている。ソラは、肩をすくめて笑った。
「はい。えっと……実は俺たち、魔女について調べているんです」
 ためらいながらも、そんな語りだしで、ソラたちは大まかな事情を打ち明けた。彼と出会ったばかりの頃ならばうさんくさいと思われていたかもしれないが、実際に狂わせの鏡を見た今ならば、少なくとも話を聞いてはくれるだろう。そう、判断してのことだった。
 青年は驚いていた。だが、同時に、とても冷静でもあった。ソラは幻獣のことをあえて語らず隠したが、それを抜きにしても現実味のない話を彼は現実としてとらえたようである。
「なるほど。それで、魔女を探していると」
 しきりにうなずいた後、青年は腕を組んで、うなった。
「あの手鏡が本当に『狂わせの鏡』だったとしたら……魔女も実在するんでしょうね……」
「順応、早いですね」
「え?」青年はきょとんとした後、少し顔をあからめて笑い、頬をかいた。「まあ、あんなもの、見ちゃったらな」
 ソラとリネは、吹き出した。今回、かなり恐ろしいものも見たはずなのに、青年にそれを気にするそぶりは見られない。『彼女』の看病も普通にこなしている。臆病に見えて、意外と図太い人なのかもしれなかった。
 三人はしばらく笑いあっていたが、あるときふと、青年が真顔になる。
「――そういえば」
 息をのむような声に、二人は首をかしげた。
「ん? どうしたの?」
「いえ、あの。ある噂を聞いたことを思い出しまして」
 頭をかいた彼は、遠くを見るようなまなざしを虚空に向ける。
「ここから北西に行ったところに、長いほら穴があるんですけど。なんでも、穴の先には森があって、そこには魔女が住んでいるらしい、って」
「魔女!?」
 思いがけない青年の言葉に、少女が蒼い髪を振りみだして、身を乗り出す。青年ははじめこそ、「うわっ」とのけぞったが、リネの勢いにも慣れたのか首を縦に振った。ただし、「あくまで、噂ですよ」と、尻ごみしたふうに続けた。
 ただ――二人の放浪者は、心のどこかで確信していた。この話が、ただの噂ではないことを。
 人と獣の血を合わせもつ青年は、ゆっくりと、微笑を広げる。
「いえ。いい情報が、聞けました」
「行ってみる価値はあるよね、そのほら穴!」
「ああ」
 ソラは、ご機嫌なリネの言葉に首肯して、青年を見やった。そして、失笑してしまう。あまりにも乗り気な二人を見つめるまなざしは、呆れを多分に含んでいた。
「――ありがとうございます」
 少年が深く頭を下げると、青年はいよいよ唖然とした。よく動く表情に苦笑しつつ、ソラは静かに言い添える。
「もしかして、行かれるんですか。噂のほら穴に」
「当然」
 ソラとリネが声を揃えて断言すれば、青年ははじめて、声を立てて笑った。
「すごい度胸ですね。あそこは魔女の噂があるからって怖がって、誰も近づこうとしないのに」
「不思議なことには慣れてるからね、私たち!」
 胸を張るリネに呆れつつも、ソラは「まあ、そういう具合で」と、適当に締めくくる。けれども青年は、穏やかな表情で、強くうなずいた。
「僕も――僕たちも、負けてられないな」
 微笑の裏のささやきは、刃のように、強く鋭くきらめいた。

 翌日、ソラたちは青年とともにポルトリートの門前にいた。まだ夜の気配が濃く、冷えきった通りに人の影はほとんどない。
「僕は、もうしばらくここにとどまります。彼女のことを見ておく必要がありますし」
「俺たちも、ほら穴に行ってから何事もなければ、いったん戻ってくる予定です。何かあれば、声をかけてください」
「わかりました。すみません……お世話になりっぱなしで」
 青年は、慇懃に頭を下げる。ソラは笑って手を振った。
「いいんですよ。こちらも、貴重な情報がいただけて助かりました」
――それから、一言、二言かわしたのち、二人は青年と別れて街を出る。ソラが彼に放った言葉が現実になるのは、案外先のことなのだが、二人ともそれをまだ知らなかった。
 鳥の声ばかりがよく聞こえる道を歩きながら、ソラは虚空に視線を投げる。
 今回、偶然関わった『狂わせの鏡』の件は、彼の心にいまだひっかかっている。被害者を助けることができたはずなのに、心の靄は晴れない。まだ何も終わっていない、と、獣の部分がささやいているような気がした。
「……あの鏡が、魔女によって作られたものなら」
 ソラの静かな呟きに、リネが目を瞬く。彼は相棒の方を振り向きはせず、初冬の空をにらんでいた。
「魔女に会えば、なにかわかるのかな」
 ほら穴を抜けた先に、魔女がいる。人の間でささやかれている話は、ただの噂だ。けれどソラは、その噂が真実であってほしいと、願っていた。彼を受け入れてくれた、人々のためにも。
 隣を歩く相棒が、その心情を察したかはわからない。ただ彼女は、無邪気に笑う。
「うん。きっと、いろいろわかると思うよ」
 その言葉にソラも破顔して、隣の小さな手をにぎった。
「さて、行くぞ、魔女探し」
「おーっ!」
 こうして二人は、北西のほら穴を目指して歩きだした。

「いろいろわかると思うよ。それにきっと――なにかが変わる」
 笑顔の裏の呟きは、少年には届かない。