第七話 風眠る地・1

 銀(しろがね)の風が吹く。
 常人の目に映らぬ風は、悪戯好きの妖精のように、草と梢を揺らして消える。
 刹那を駆けた一陣は、痕跡を残さない。
 気ままで、けれど抜け目のない、この地の主のように。

     ※

 目的地までは、獣道を通らなければならなかった。けれど、旅慣れている二人組からは、かけらの動揺も感じられない。十代後半の少年と、十代前半の少女。旅をするには若すぎる一対は、いつもどおりの足取りで、道なき道を進んでゆく。
「うーん……。そろそろ、のはずなんだけど」
 少女は首をかしげながら、手元の紙に目をやった。人の手で描かれた真新しい地図を、青い瞳がなぞる。
「わかりにくいところにあるって話だったからな。あせらず探そう」
 かたわらを歩く少年は、言い聞かせるように呟いて、腰のホルスターを叩いた。
 ポルトリートでの騒動から、すでに三日が経っている。ソラとリネ、二人の旅人は、手を貸した青年から得た情報を頼りに、噂のほら穴のすぐそばまで来ている……はずだ。地図どおりに進んでいても、実際の穴が見つからなければ、話にならない。草木をかき分けながら、慎重に、目的の場所を探す。
「見つからないねー」
「いくら見回っても木ばっかりだな」
 言いつつ、ソラは頭に触れた枝を払った。
 かなりの時間、捜索しているが、それらしき場所はまったく見つからない。いっそ二手に分かれようか、と考えかけて、ソラは足を止めた。今までと何も変わらない木々。だがそこに、かすかな違和感をおぼえる。じっと目をこらしたソラは、細い枝が密集した場所にそっと近づき、枝が折れてしまわないよう気遣いながら、それらを横に払った。――現れたものを見、息をのむ。
「これは……」
「ソラ、どうしたの?――あっ!」
 リネが横から顔を出し、次いで驚きの声を上げる。
 ソラが枝葉を払った先には茶色い岩壁がそびえていた。岩壁の途中は、なぜだかぱっくりと裂けていて、人一人がぎりぎり通れそうな穴があいている。
「ひょっとして、これが噂の?」
「思ってたのと違う……」
 落胆しているリネの肩を叩き、ソラは穴をのぞきこんだ。冷たい暗闇は、終わりが見えない。ただ深いだけの洞窟かとも思ったが、生ぬるい風の流れを感じる。どこか、外とつながっているのかもしれなかった。
「当たり、か?」
 ささやきは、穴の中へ吸い込まれて消える。
 ソラは、ひとまず、リネを振り返った。視線が合うと、少女は思いっきり首を縦に振った。水色の髪が、さらりと揺れる。
「行ってみようよ!」
 青い瞳は木々の下、薄暗がりの中でもきらきらと輝いている。ソラは、ふっと相好を崩した。「じゃあ、行くか」と軽い調子で言うなり、みずから半身になって岩の裂け目に体をねじこんだ。元気のいい相棒が、後に続く。小柄なぶん早く滑りこんだ彼女の手をとって、ソラは歩きだした。
 洞窟はひんやりとしていて、静かだった。わずかな生き物の気配さえない。ただ、二人分の足音だけが跳ねかえる。
 道のりは思っていたより長い。どちらからともなく、繋がれた手に力を込めた。
「ただのトンネルって感じだねえ」
「ああ。けど……変な感じはする」
 ソラは身震いし、奥をにらんだ。吹いてくる風は生ぬるいのに、妙な寒気を覚える。止まっていた足を出したとき、小さな声がソラの耳に届いた。
「銀(しろがね)の風……」
 振り返れば、同じように奥を見ているリネの横顔があった。幼い相貌からは表情が抜け落ちて、ただ深海のような瞳だけが、冷たい光を放っている。子どもとは思えない姿にぞっとして、ソラは、口を開いていた。なにか言わなければと、思った。
「リネ?」
 少女は呼ばれると彼の方を見て、首をかしげた。
「ソラ?」
「お、おう」
「どうしたの、ぼーっとして」
「いや……それ、俺が訊きたい……」
 困り果ててソラが頭をかくと、リネはさらに頭を傾けた。もしかして無意識なのか、と思い当って、ソラは改めて訊いてみた。
「あのさ、リネ。さっき、何か言ってた……よな?」
「ふえ? そうなの? 私、なんて言った?」
 案の定だった。忌み子の少年は、当たらなくていい予感が的中したおかげで、脱力する。出したくもないため息がこぼれた。
 いったいなんだというのか。以前からリネは不思議なところのある子だが、最近それに拍車がかかっているようだ。突きつめていったらとんでもないことがわかりそうだが、今はこれ以上問答をしているひまがない。結局、ソラは軽く手を振って、相方に背を向けた。
「ま、いいや。俺の聞き間違いかもしれない。行こう」
「あ――う、うん」
 あっさり思考を打ちきって歩きだしたソラを、リネが不思議そうな顔をして追ってきた。すがりつくように、自分の左手に重なった手を、ソラは苦笑しつつにぎりかえす。
 道程は相変わらず、静けさに包まれている。見る限りは、一本道のようだった。念のため、枝分かれした道や横穴がないか調べながら進んだが、それらしきものはまったく見つけられなかった。
 歩いた時間を計算しかかっていたソラはしかし、視界の端に違和感をおぼえて顔を上げる。気づいたリネも立ち止まり、道のむこうをじっと見た。
 暗闇のなか、二人よりずっと前方に、猫の夜目のような光が揺らいでいる。
「ねえ、あれ出口じゃない?」
 リネが、ソラの上着のそでをひっぱった。当のソラは、強くうなずく。
「多分、そうだ」
 頬をくすぐった風は、緑の香りをはらんでいた。
「行こう」
「うん!」
 二人は、改めて手をつなぎなおすと、足早に洞窟を進んだ。魔女に会えるかもしれない。理想郷をよみがえらせる、手がかりを得られるかもしれない。そう思えば、自然と気分が高まった。
 洞窟を駆け抜けた先、目に飛びこんできたのは、まさしく大自然の風景だった。
 太い根を張った大木が、いびつな列をなしている。草花は競い合うように根を張り、茎をのばし、葉を広げて花を咲かせる。鳥獣の声と草葉の音だけが響く空間は、壮大であり恐ろしくもあった。
「……これは、すごいな」
「幻獣のところもきれいだったけど、ここもきれいだね」
 各々に感嘆した二人は、それからしばらく、言葉を忘れて眼前の光景に見入った。
先に、気持ちが切り替わったのはソラの方だった。かすかに吹き抜けた風が、彼の意識を引き戻したのである。
 ソラはわずかに肩を震わせてからあたりを見回したが、変わらず森の風景が広がっているばかりだ。
 誰も、何もいない。けれど、誰かに呼びかけられたような気がしたのだ。
「おかしいな」
「変だなあ」
 呟いたソラはしかし、声が重なったことに気づいて、目を丸くした。隣のリネが、腕組みをして眉をよせ、唇をとがらせてうなっている。珍しく、深く考えこんでいるふうだ。
「どうかしたのか」
 問えば、リネは、正面を向いたまま、首をかしげた。
「私ね、ここに来たことがある気がするんだ」
「え?」
 思いもよらぬ少女の告白に、ソラは唖然とした。少し考えて、首を振る。「でも、おまえ、出奔するまで国から出たことないって言ってなかったか」
「そのはずなんだよ。だから、変だなあって」
 小さな言葉に言いようのない重みを感じて、ソラは目を伏せ、押し黙る。だが、気まずい沈黙を打ち破ったのは、ほかでもないリネ自身だった。
「まあ、いっか! 今気にしても、しょうがないし」
 明るく自己完結したリネは、元気よく歩きだす。小さな背中をながめるソラは、知らず知らず、眉間にしわを刻んでいた。
 小さな宗教国家に生まれ、逃げるように国を出るまでは、外の世界を知らなかった少女――それが、リネのはずだ。仮に外へ出たことがあって、彼女が覚えていないにしても、魔女を悪者とし、「魔術」を禁忌とするかの国の人間が、魔女の噂のある森に来るなど考えられない。
 ソラは沈思黙考のすえ、かぶりを振ってそれらをすべて打ち消した。
「リネの言うとおりだな。今気にしても、しょうがない」
 おのれに言い聞かせた言葉は、やけに乾いて響いた。

 真なる自然が広がる森は、しかし生き物がいないのではと心配になるほど、静かだった。ただ、しばらく歩いていると、昆虫や栗鼠の姿が少しずつ見えはじめる。
「俺たちのこと、警戒してたのかもなあ」
 今までより大きな鳥の声を聞きとり、ソラは微笑した。
 二人の侵入者は、あてどなく歩きながら魔女の手がかりを探しているところだった。とはいえ、魔女はいまだ、噂だけの存在だ。呼べばひょっこり出てくるというものでもない。今のところ、足跡や人が生活している痕跡なども、見つかっていなかった。
「やっぱり、所詮は噂……か?」
 ソラは呟いて、木々に覆われた狭い空をあおぐ。枝葉の間からこぼれる光は、強くて白い。陽が高くなっている。休憩をとった方がいいかもしれないと思ったソラは、リネを振り返った。少女は、また難しい顔をして考えこんでいる。
「リネ?」
 声を大にして呼べば、リネは飛び上がりそうな勢いでソラの方を見た。
「なにか見つけたか」
「あ、ううん、えっとね。すごく不思議なところだなーって思ったの。この場所全部を、風がふわーって包んでる感じがして。――”たとえ”だけどね!」
 はにかむように笑った相方に釣られ、ソラも自然と笑みをこぼした。彼は無造作にリネの頭をなでたあと、本題を切り出す。
「とりあえず、ここらで休憩にしないか? それから、もうしばらく魔女の手がかりを探す、ってことで」
「賛成!」ソラの提案に、リネは両手をあげて答えた。
 あたりを見回すと、休憩にちょうどよさそうな丈の低い草が茂ったところがあった。二人は、それまでとは違うやわらかい草の感触を楽しんだあと、並んで座りこむ。緑の空気を胸いっぱいに吸ったソラは、深く息を吐きながら、なんの気なしに天をあおいだ。
 瞬間、ほぐれていた心が凍りつく。
 己の目を疑ったソラは、すぐに立ち上がり、その場で上半身をひねる。見えたものは、先ほどと同じ。気のせいなどではない。今度こそ、息が止まった。
「なっ――」
「ソラ? どうしたの?」
 異変に気づいたリネが、少年の視線を追いかける。遅れて『それ』に気づいた彼女も、こぼれ落ちそうなほどに目を見開いて、腰を浮かせた。
「う……嘘。なんで、ここの木まで……?」
 二人の後ろ。もたれかかるには遠いところに、一本の長い木が生えている。太さを見ただけでも、樹齢百年はくだらない樹木だが、同じような木はほかにいくらでも生えていた。だが、その木には、ほかの木々と明らかに違うところが、一点あった。
 枝先から幹のなかばまでが、墨液を染みこませたかのように、まっ黒く染まっているのである。それは、二人が幻獣の森で見た木とまったく同じ姿だった。