第七話 風眠る地・2

「俺たちは、よほど縁があるらしいな」
 少年の黒い瞳は、静かに木をにらんでいた。だが、彼がその実見すえていたのは、黒く染まって凹凸が際立った幹でも、今にも折れそうな枝でもなかった。彼は、探していた。殺意というには鈍すぎる、どす黒い視線と気配の源を。
 たたずんだままの彼の横で、リネがうつむいて拳をにぎる。
「そんな……こんなの、ひどいよ……」
 しぼりだすような声を聞いたソラは、相棒に視線を落とした。純粋な訴えは、きっと誰にも届かない。それでも言わずにいられなかったのだろう。はじめてあの黒い木を見たときは、その異様さにただただ驚くしかなかった。だが、今は違う。不気味な黒を生み出すのは、魔女とまじない師の力だとわかっている。わかっているがゆえに、より強い怒りと悔しさがこみあげてくるのだ。
 無意識に奥歯を噛みしめたソラは、木の幹をにらみつけた。
「いるんだろ。隠れてないで出てこいよ」
 放った声は、自分でも驚くほど低かった。背中からにじむ怒気におされ、リネがわずかに後ずさる。ソラは、気づいていながらも、木の幹から目を離さなかった。
 人の息遣いが二、三度重なったあと。木陰から、影がにじみ出してきた。『彼』の全身を覆う黒い衣は、まさしく影そのものである。彼は、音を立てず、よどみなく動いて、二人の旅人の前に立った。背筋をのばし、行儀よくしたまじない師は、にい、と笑う。
「さすがは獣の子。ずいぶん鋭い目と鼻をお持ちで」
「あんたみたいに気持ち悪い力と気配をぷんぷんさせた奴は、嫌でもわかる」
「左様で」
 まじない師は大げさに肩をすくめた。おびえた様子も悪びれた様子もない。表情も感情もうかがえぬ彼を、リネが、きっ、とにらんだ。
「なんでこんなことするの? また『嫌がらせ』のつもり?」
 語気を荒げて問われても、まじない師は冷静だった。考えこむそぶりを見せたのち、二人へ順繰りに視線をとめる。布の奥の目が、わずかに細った。
「今回のこれは、先の件とは別物だ。性質も、目的も」
「ゆえに」くぐもったささやきが、一段低くなる。ソラも、リネも、反射的に身構えた。
 ローブが動き、骨ばった腕が高く掲げられる。
「邪魔は、しないでいただきたい」
 まじない師はすぐには動かない。二人もうかつに踏み込んで、的にされる気はない。しばらく、互いが互いの動きをうかがう。
 ソラは、剣呑なまじない師をにらんだのち、木へ目を配った。まがまがしささえ感じられる、まっ黒な木の幹。うっそうと茂る木々の中で、その一本だけが、異様に浮き立っている。だがそれはおそらく、とてももろい。まじない師の力に浸食されて、内側から腐食している恐れさえあった。こみあげたやりきれなさを息に変えて、ソラはそっと吐きだした。それからまばたきひとつの間に、ホルスターから銃を引き抜き発砲した。彼へ迫っていた黒い剣が、塵となって消える。
「見たからには消す、か?」
 黒い残滓の向こう、同じ色のローブを見すえてソラは問う。表情は、ここからでは、わからない。
「おっと。やる気になってくれたようだね。怖い怖い」
「あんた相手に手を抜いたら、死ぬんでね」
 うすら寒い軽口の応酬を終え、銃を持ちなおしたソラは、相棒に目配せする。リネもまた、武器を手に、厳しい顔で立っていた。
「……ソラ」
 いつもどおりの音で緊張を隠した声が、少年を呼ぶ。
 リネは、激情を押し殺した表情で、ローブを見ていた。
「こいつ、本気だよ」
 リネの言葉は真実だろうと、ソラは思った。
 幻獣の里に現れた彼は、どこか遊びを楽しむようなふぜいだった。余裕の態度でこちらを嘲り、弄び、たくみに時間稼ぎをし、楽しみつつ目的は達する、というやり口だった。しかし、今日はそうではない。
 布の奥、わずかに見える瞳の中から、表情が消えた。
 ほんの一瞬、地面が揺れる。
 刹那、地面をうめ尽くすほどの黒が突き出した。黒い針山で串刺しになる前に、ソラたちは、大きく後ろに跳んでかわす。少年の首筋を冷や汗がつたった。
 黒い針は、二人を追って生えてくる。ソラは舌打ちとともに引き金を引き、針を二本ほど砕いた。その背中の先から銀色の光が飛来して、続けざまに黒を切り裂き、崩してゆく。青い髪をなびかせたリネは、また針が生えてくる前に、地面に刺さった棒手裏剣を回収した。
 二人の立ち回りをながめていたまじない師は、そこで一度、黒い針を生み出すのを止めた。その隙に、ソラは意識を集中させて、リネは片手をあけて少しずつ水に語りかける。
 すべての水が掌握されるよりも先に、まじない師の方が飛びこんできた。虚空にかざされた手の中に、前触れなく黒い剣が現れる。同時にリネが準備を終えて、ソラの前に飛び出した。たちまちに水が集まって凍りつき、透明な剣ができあがる。その存在がソラの目に触れるより早く、けたたましく刃がぶつかりあった。ソラは、金属とは違う異様な響きに眉をひそめる。
 リネが、力を使うことをためらわなかった。力を以って制さねばならないほど、このまじない師が危険な相手だということだ。自然、ソラもリネも表情が険しくなる。
 しばしのつばぜりあい。そして再び刃がこすれて高鳴った。両者は勢いよくとびすさる。その瞬間を狙い、ソラは、構えた銃の引き金を引いた。炎と化した鉛玉はまじない師の右手を直撃し、黒い剣がはね飛ばされて、灰塵に帰した。
「……さすが、といったところだな」
 よろけながらも着地したまじない師は、血が滴る己の右手を押さえる。その顔に動揺の色はなく、むしろ状況を楽しんでいるふうだった。
「私は、戦いたいわけではないのだが」
「自分から攻撃してきておいて、よく言う」
 ソラは油断なく得物を構え、相手に視線を向け続けていた。硬直する空気のなか、まじない師がほんのわずか、口角を上げる。
 ソラは、後ずさりした。冷たい手に背中を撫ぜられた気がした。
「なんだ……?」
 今までに感じたことのない不気味さが、まじない師に宿った気がする。感じたのはほんの一瞬だったが、確かな気持ちの悪さは胸の奥でくすぶり続けている。得体の知れない「怖さ」は、獣の五感を持つ少年を慎重にさせた。だが、再びまじない師を見たとき、彼の様子は先刻とまったく変わらなかった。
「せっかくだ。君たちにとっても楽しい遊びにしようじゃないか」
 笑い含みの声が響く。直後、黒ずんだ木の陰で、何かが動いた。覚えのある揺らぎ。記憶に刻みついた悪寒。嫌な予感をおぼえ、ソラはすばやく銃口をそちらに向けた。すぐに弾倉を入れ替えたが、その間にも木陰から獣が這いでてくる。
「また魔獣かよ……。勘弁してくれ」
 予感が当たったからとて嬉しくもなんともない。むしろ、愚痴をこぼしてしまう程度には参っていた。リネも疲れのにじんだため息をこぼしたが、すぐに棒手裏剣を抜いて投げると、湧水のように出てきた二頭を退ける。
 声も上げずに絶命し、黒い塵となる狼を見、リネは首をかしげた。それから、己の手を広げてそれをじいっと見つめる。
「……あれ?」
 彼女は、怪訝そうに何度も魔獣のいた方と自分の手を見比べた。
 その間にも横合から魔獣が襲ってくる。五感で気配を拾ったソラは、本能に従って動いていた。一歩退き銃を構えて、相手が空回りして動きが鈍ったところを狙い撃つ。獣はあっけなく散って、集いはじめていた仲間たちも少しひるんだようだった。獣たちの動揺を見、ソラは眉をひそめる。リネが不思議そうにしていたわけがわかった。
「前より大人しくないか」
 ソラの呟きに、リネがしきりにうなずいた。
 魔獣といえばとにかく獰猛で残酷な印象があった。現に、討伐作戦のときも隠れ里のときも、仲間が殺されようがなんだろうが、なりふり構わず向かってきた。だというのに、今回に限って慎重――否、臆病になっているとは、いったいどういうことなのか。
 ソラのめまぐるしい思考をまじない師の舌打ちがさえぎった。
「魔力のせいで獣たちが弱っているか……『銀の風の魔女』め、やってくれる」
 ふいに出た言葉に、ソラとリネは驚いて固まった。
「『銀の風の』……」
「魔女、だって?」
 思いがけない形で魔女の実在を知った二人は、つかのま戦いのことすら忘れて、呆然としてしまう。
 風が吹いた。今までよりも、鋭く、冷たい風は、銀色をまとっているかのようだった。風はゆっくりと、あたりの砂塵を借りて形をなし、魔獣たちを取り囲む。すると、魔獣たちは見る間に生命力を失い、崩れ落ちてゆく。はじめて忌々しげに顔をゆがめたまじない師が、すばやく右手をあげた。獣たちがよろめいて、次の瞬間、黒い塵と化して消えてしまった。どんなに頑張っても、一片の気配さえつかめない。ソラは顔をしかめつつ、それでも獣の脅威が去ったことには安堵していた。
 だが、本当の脅威が魔獣ではないことも、わかっているつもりだった。
「しかたがないな。もう少し、見て楽しみたかったのだが」
 瞼をおろしてぶつぶつと呟いたまじない師が、その後、ゆっくり目を開ける。現れた瞳を見て、ソラは、ぎょっと後ずさりをした。黒い両目に、先ほどまでの知性や冷徹は感じられない。狂気じみて、獰猛な光が、炎のようにちらついている。
「まあ、遊ぶ楽しみは増えたから、許してやろうか」
 独白とともに、赤い舌が血色の悪い唇を撫ぜる。
 血走った目は、子どものように笑った。
 目をそむけたくなるような狂気を前に、ソラは冷静であろうと、五感を研ぎ澄ます。そのとき、黒衣のまわりに妙な気配がまとわりついていることに、気がついた。紫色のうねりに見える『それ』は、少年たちを戦慄させた。彼らの動揺をあざ笑うように、まじない師は唇を歪める。
「そろそろ、お互い本気を出して戦うとしようか。なあ、白竜の小せがれよ」