第七話 風眠る地・6

 かすかに意識を取り戻したソラが聞いたのは、相棒が「魔女」を名乗る声だった。なんの冗談かと笑い飛ばしたくなったが、悲しいかな思い当たる節はいくつもある。――むしろ、素性がわかって安心しているくらいだった。
 水の中から空を見ているかのようにおぼろげな世界。そのなかで、少女の背中はいつも以上に大人びて見えた。艶さえ感じる姿に、ソラはただ、感動に似た熱を帯びる心を抱いて、呆然とするよりほかにない。
――ああ、これが魔女という生き物か。
 胸を満たした熱が弾け、解き放たれたその瞬間、彼は再び意識を手放した。

「碧海の魔女か」
 感情を宿さぬ声が響いた。まじない師は、しばし疑わしげな目でリネットを見つめていた。しかし、彼とて世界に近しい力を持つものだ。この、少女の持つ力がまじないとも魔導のそれともかけ離れていると気づくのも時間の問題だと、リネットは確信していた。彼女の思ったとおり、まじない師はすぐに得心した様子で、これみよがしに口角を上げた。くつくつと喉の奥から笑声が漏れる。
「なるほど確かに。その力、覚えているぞ。よもやただの娘のふりをして、俗世にまぎれこんでいようとはな」
「私は、あなたのことなんて全然覚えていないけど」
 リネットは、首をひねって呟いた。こうは言ったが、正直なところ、彼が何者であるかはどうでもよい。敵である事実に変わりはない。まじない師も同じことを考えたのか、リネットの呟きを追及しなかった。
「こんなところで会えるとは思ってもみなかった」
「私だって、こんな形で封印が解けるとは思わなかったよ」
 笑いを含んだ言葉を受け流しながら、リネットは忌み子の少年に目をやる。彼はまた気を失ったらしく、横たわったまま動かない。
 リネがリネットに戻ったのは、ソラが「真名」を呼んだからだ。なぜ、ソラが真名を知っていたのか。気になる部分ではあるが、今はそれを突きつめるすべもひまもない。しかたなく、魔女は敵に向き直った。
「なんにせよ、幸運なことだ。魔女をしとめる機会を得られるとはな」
 いびつな顔の男のまわりから、薄い黒がしみ出してくる。リネットは、刻々と形を変えるそれをなんの感慨もなくながめた後、空中に指を滑らせた。繊細に描いた軌跡に合わせて水が揺らぎ、氷結する。黒いものが標的を定めたとき、彼女のまわりの水たちは、凝固し集まって、大きな槍を形作った。魔女が指揮者のごとく腕を振ると、氷槍はそれ自体が意志を持つかのように飛び出した。穂先をただ一人の敵に向けて、黒い靄を一瞬で切り裂いてゆく。まじない師は舌打ちとともに、漆黒の刃を生み出した。刃と氷槍はぶつかりあって、砕け散る。
 まじない師は歯ぎしりした。魔女は眉ひとつ動かさなかった。子どもの小さな手は、自然界の水をなでて、我がものとしてゆく。華のなかった唇に薄い冷笑を湛え、しもべとなった水たちを、まじない師の方へ導いた。碧海の魔女と呼ばれる女の加護を受けた水は、さらさらと音を立てながらも凶悪な勢いで敵をのみこまんとする。
 まじない師が雄叫びを上げた。力が一気に吹き出して、形を持った。太いひも状に変化したそれは、鞭のようにしなって水を払った。涼しい音とともに、透明な飛沫が散る。雫を浴びて黒衣が濡れても、男は一顧だにしなかった。わずかに外れて残っていた、最後の水の玉をにらみつけ、そちらへ黒鞭をのばす――
 ぱし、と玉が割れた瞬間、リネットは小ぶりな槍を生み出し、投げていた。切っ先のきらめきに愕然としたまじない師は、黒を引き戻しながら後退しようとした。が、男が動くよりわずかに早く、水の槍が彼をとらえた。体を貫いたところから、静かに凍りつきはじめる。
 絶叫がほとばしった。獣の咆哮を思わせる音が森を揺らす。魔女の青瞳は、それでもなお冷やかだった。
 水から氷に変化した槍は、すぐにひびが入って、そこから溶け落ちた。滴る水の中に赤い液体が混じる。まじない師は、傷口を押さえながら、相手を焼き殺さんばかりの視線を女に向けた。背後から黒が勢いよくせり出してくる。
 声が上がる。今度は言葉ですらなかった。色を持った力は狂乱する術者に呼応して奔流となり、リネットに襲いかかる。
 彼女はため息をこぼした。虫を追い払うように手を振った。
 乾いた音を立て、黒が霧散した。後に残るのは、術の名残の塵だけだ。もはや声さえ失ったまじない師へ、リネットはいつもの調子で言葉を投げる。
「まじないは本来、占いをしたり、生物にちょっとした守りを授けたりするものでしょ。なにかを傷つける力じゃないし、傷つけられもしない。それをむりやり戦いのための術に作り替えたところで、そんなものは所詮、まがいものだよ」
「お、のれぇっ……!」
「怒るの? 私の大切な人をさんざんいじめておいて、自分が痛い思いをしたらそんな顔をするんだね」
 リネットはあきれ果ててかぶりを振った。口調こそ少女のものだが、彼女の顔にさいぜんのようなあどけなさはない。吹雪のごとき視線に射すくめられたまじない師は、口を開閉させながら固まっているしかなかった。
「わかったら、早く立ち去りなさい。ここは『銀(しろがね)の風』の領域。あなたが立ち入っていい場所じゃないよ」
 リネットが冷酷にうながしても、まじない師は動かなかった。いや、動けなくなったか――魔女がため息をついたとき、男の両目に凶悪な光が宿る。
 魔女は身構えた。まじない師の影から、再び黒い力が顔を出した。彼女はきわめて冷静に、従えた水でまじないを相殺したが、視界の端を別のものが通りすぎたことに気づいて、目をみはる。彼女がまじないに気を取られている隙に、男が黒塗りの短刀を作り上げて、それを振りかざしながら魔女の脇を走り抜けていったのだ。彼の狙いは、ただひとつ。
「ソラ!」
 黒曜石によくにたきらめきを持つ刃は、間違いなく、少年を狙い定めていた。相方の名を呼んだリネットは、憤怒をこらえて氷の短刀を作り出す。透明な柄をにぎりしめ、黒衣めがけて突進した。
 氷が光る。目がぎょろりとリネットの方を向く。黒い刃が向きを変えようとして、けれど大きく痙攣して動きを止めた。
 手ごたえと、鈍い音。そして刃がえぐったその奥から、鮮血があふれ出た。
 うめき声が聞こえる。それが言葉を紡いだのかただの音だったのか、リネットにはわからなかった。彼女はただ冷徹に、喉を鳴らす男を見下ろす。ほんの一瞬、恐怖の寒気がはい上がって、すぐに失せた。まじない師の唇がわななく。なにかを言おうとした彼はなにも言えないまま、その場に崩れ落ちた。
 少しして男は完全に動かなくなり、ただの肉塊になり果てた。リネットはひとつの死を見届けたあと、みずからの前に小さな両手を広げた。子どもの、少女の、小さな手。けれど、魔女の力と人の血が染みこんでいる、手。
「ああ、嫌だなあ……」
 誰にともなく呟いた。沈黙した人に背を向け、吸い寄せられるように歩き、意識を失ったままの相方のそばにかがみこむ。顔色はよくないが、脈はあるし、傷も順調にふさがってきている。リネットは、血色の悪い頬を愛おしげになでた。
「ソラ――ごめんね」
 ささやきが、小さく草葉を揺らした。空白の後、背後で悲鳴じみた高音が響く。まじない師が倒れていた場所に、風の渦が巻き起こっていた。銀の渦は、男の体を持ちあげて、いずこかへ連れ去ってゆく。風の鳴き声を聞きながら、リネットは顔をしかめた。
「ここはあなたの森でしょ? 出てくるのが遅すぎるんじゃない?」
 銀の渦が消えうせる。今度は、色のない風が木々をざわつかせた。木の葉が立てる騒音は、ふてくされた主の心をそのまま表しているのかもしれない。そんなふうに考えると、怒る気も失せるものだ。リネットは、ため息をひとつ、落とした。草葉が落ちつくのを待って、森の奥に話しかけた。
「ねえ、そっちに行ってもいい? この子を助けたいの」
 リネットの目は、横たわる少年をとらえてうるむ。少しの沈黙の後、風が短く鳴った。リネットは、感謝の言葉をささやこうとして――しかし、そのまま動きを止めた。
 突然、いっとう強い風が吹きつける。銀の風は木々をゆさぶり、水色の髪を鋭くなであげた。狂ったように笑う風のむこうから、その主は悠然と姿を現した。