第八話 魔女の団欒・1

 意外にも――というべきか――記憶に強く残っているのは草葉のにおいだ。両親が緑に親しむ種族の血を持っていたからか、ソラの家にはいつも、たくさんの植物があった。庭は当然のこと、屋内にも鉢植えが多かったから、さながら植物園の様相を呈していた。人の手で管理することがただでさえ難しい植物が、家に何種もあるという事実。これが変わったことだと知るのは、彼に友と呼べる人ができてからのことである。
 両親の植物収集癖に呆れはしても、嫌いではなかった。彼も両親も、幻獣の血にひっぱられていたのかもしれない。家を満たす緑のにおいに、知らず安らぎを覚えるくらいには。

 強く頭に刻まれた香りが自分を包んでいることに気づき、ソラは不思議な心地で目を開けた。
 このように落ちつくのはいつぶりだろうか。もう少し、草葉の香りに身をゆだねていたいと思った。だが、しなければいけないことがあった気もする。火によく似た感情が胸中を少しずつ炙っている。その思いのもとを確かめたくて、彼は手を広げようとしたが、激痛が走り慌てて引っ込めるはめになった。
「ぐっ……!?」
 全身を殴りつけて引きずりまわす痛みに、ソラはうめいて体をよじった。だが、それ以上は暴れる気にもなれず、ぐったりと横になる。浅い呼吸が繰り返されて、そのたびに激痛はあちこちを叩いた。痛みのためだけでなく体は重く、そしてやけに熱かった。何があってこうなったのか――回らない頭で考えようとしたそのとき、声が降ってきた。
「あら、意外と元気なのね」
 知らない声は女のものだ。ソラが疑問を口にする前に、見たことのない女がのぞきこんでくる。長い銀髪に陰った顔は端麗で、それ以上に底知れぬ圧力を持っていた。無邪気に光る紫色の瞳のむこうに、時の重みを垣間見る。
「でも、まだ動かない方がいいわよ。幻獣の治癒力とリネの力があったとはいえ、ここに来た時は死にかけてたんだから」
 ソラの戸惑いをよそに、彼女は軽い声音で続ける。あっけらかんとした言葉の中に聞き覚えのある名が混じっていた。ソラは、驚くと同時に、意識を失う前の出来事を思い出していた。怒涛のように押し寄せる記憶は、彼に少なくない痛痒と焦燥をもたらす。最後ににじんだのは、水色の髪の少女の背中。
「そうだ……あいつ、どうなったんだ。リネは無事か!?」
 ソラは食らいつくような瞳で女を見上げた。だが、すぐにうずくまる。大声を出したせいで、あちこちが痛みを訴えたのだった。うめく少年を見下ろし、女性は鈴を転がすように笑った。
「あの娘(こ)は無事よ。というか、ぴんぴんしてる。今のあなたの方がよっぽど重傷だわ」
 明るい一言に、ソラはほっと息をつく。安心感が一挙に押し寄せてきたが、それも次の女性の言葉で薄らいでしまった。
「へえ。彼女をこーんなに心配するもの好きがいるなんてねえ。あ、そうか、あなたにとっては『宗教国家の女の子』なんだっけ」
「何、言って――」唖然として叫びだしかけたソラは、しかし記憶の断片に気づいて口を閉ざす。
 彼女の声を思いだす。
 水中を漂うような意識の中で聞いたそれは、「魔女」と言っていた。
 魔女のことは友人から聞き、そして理想郷をよみがえらせる鍵だと知り、しかし実体がつかめずにいた。そのはずだったのに、こんなにも近くにいるものなのか。困惑する一方で、不思議と納得してもいた。
 常人が持ちえぬ力と、時折見えた老成した空気をまとう姿。それは、彼女が長きを生きる魔女であると裏付ける材料になる。
――むしろ、得体が知れないのは目の前の女性の方だろう。ソラは茫洋とした推測を抱きながらも、口を開く。
「あなたは……いったい何者ですか?」
 彼女は軽く目をみはったあと、嫣然とほほ笑んだ。
「私はウィンディア。世の中じゃ『銀(しろがね)の風の魔女』なんて呼ばれてるわ」
 なんでもないふうに素性を明かしたウィンディアは、得意顔でソラを見下ろす。新たな魔女を少年はまじまじと見上げた。『銀の風の魔女』の名は、ここにたどり着くまでに何度か聞いた。彼らが踏み込んだ森にいる、とされていた。そして今、本人がいるということは、魔女の森の噂は真実だったということか。
 果てのない思考を続けるソラをよそに、ウィンディアは後ろを向く。小さく、扉の開く音がした。
「あら、リネ。おかえり」
「ただいまあ。……ねえ、これでよかった?」
「お、完璧。これで新しい薬が作れるわ。ありがと」
 笑みをまとった魔女の言葉に「いいえー」と、ため息交じりの声が返す。ウィンディアはその調子のまま、あっけらかんと、言い添えた。
「そうだ。あなたの相方くん、意識が戻ったわよ」
 音が絶えた。いよいよもって、周囲の様子が気になる。ソラが頭だけでも動かそうとしたとき、顔の上に影が差した。鮮やかな水色の髪が垂れてきて、肌をわずかにくすぐる。驚いた彼がその方を見れば、二つ名の由来であろう青い瞳がすぐそばにあった。
「ソラ!」
 歓喜の悲鳴を上げた少女の白い手が、少年の頬に触れる。心地よい冷たさを覚え、ソラはようやく状況を理解した。相棒の名をかみしめて、今度は静かに見つめ返す。
「リネ。無事だったか……よかった……」
「ソラこそ! これで起きなかったら、どうしようかと思った!」
 リネはわずかにうるませた目をまっすぐソラに向けている。今にも泣きだしそうな顔は、ごく普通の少女にしか見えない。ソラは苦笑し、なんとか手を伸ばして、水色の頭をなでた。
「ごめん。怖かったよな」
 リネは、強くかぶりを振る。何かをこらえるような表情はしかし、一瞬でしかめっ面に変わった。近くで押し殺した笑い声が響いたからだろう。ソラが頭を動かし、リネが目をすがめて振り向くと、銀髪の女性が俯かせていた顔を上げた。少女の両目がますます細くなる。
「ウィンディア、あなたねえ」
「ごめん、ごめん。あなたが普通の女の子扱いされているのが、おかしくて」
「氷漬けにされたいの?」
「やれるものならやってごらんなさい」
 満面の笑みの下、少女は殺気を漂わせる。これまで知らなかった相方の一面に、少年は少なからず驚いた。が、銀の風の魔女はというと、余裕綽々といった風情で青い髪を見ている。
 二人の魔女のはざまで見えない火花が散る。さすがのソラも、たじろいだ。
「おおい……喧嘩はよそでやってくれ……」
 呟いたとたん、じわりと眠気が襲ってくる。まだ回復しきってはいないらしい。ソラは、抗いきれずに目を閉じた。魔女の喧嘩の顛末は、結局知らないままだった。

 次に瞼を持ち上げたとき、視界いっぱいに黄金色の光が飛び込んできた。それが西日であると分かると、ソラは急に安心感を覚えた。世界から隔絶されているような森でも、ひとしく時は流れているのだ。
まとまりのない思考に沈む意識を、額の冷たさが引き上げる。濡れた布の感触に気づいたときには、相棒と目があっていた。
「起きた! おはよう!」
「……おはよう」
 はしゃぐリネに生温かくほほ笑んで、ソラは挨拶を口にする。思った以上に乾いた声は、ちくりと喉を突き刺した。思わず顔をしかめると、目ざとく気づいたリネが、「水!」と叫んでその場を離れる。
「いつにも増して元気がいいわね。『碧海の魔女』。――人の世で、冷酷無比と恐れられた女が」
 くすくすと笑いながら、艶やかな声がうたう。リネは、少しむっとしたようだった。
「そういうふうに仕立て上げたのはあなたでしょう、『銀の風の魔女』」
 いつもより低められた声と一緒に水音が聞こえる。とげとげしさの中に親しみがこもったやり取りに、ソラは笑みを誘われた。同時に、本当に魔女なのだという実感がこみ上げる。
 少ししてリネが持ってきたのは、いつも携帯している水筒だ。動く気力も体力もないソラは、されるがまま水を口に含んだ。液体に撫でられた喉がひりりと痛んだが、水分を取り入れたおかげで体はいくらか楽になる。
 かたわらにいた魔女が投げやりに手を振った。
「もうしばらく寝ていなさいな」
「……目が冴えてしまって」
「ええ? まあしょうがないかー」
 ウィンディアは口をとがらせる。弾むように身をひるがえした彼女は、寝台のそばに椅子をひいてきて腰かけると、足を組んだ。呆れるほど優雅なしぐさである。思わず目を奪われるソラとは対照的に、リネは対して動じていない。
「じゃあ、そろそろ話してあげたら? いきなり魔女って言われても、わけがわかんないと思うし」
「それは、どちらかというとあなたの方ではないの? リネット」
 鋭く切り返されて、リネは声を詰まらせる。ソラはどっちつかずの曖昧な微笑を浮かべる。二人を見比べた魔女は、ころころと笑声を立てた。白い繊手が通り名どおりの銀髪を払う。
「そうねえ。何から話したらいいかしら。何が知りたい?」
 白銀の双眸がどことなく冷ややかに少年を見つめる。彼は少し考えた後、感情のない視線をリネに向けた。
「この子が魔女っていうのは、本当か?」
 小さな肩が震える。ウィンディアは「やっぱり」と呟いた後、確認の言葉を肯定した。
「本当よ。この娘は正真正銘、強き魔導士。魔女の一角」
 リネがウィンディアを振り仰ぐ。複雑な感情が、光となって瞳に浮かんでいた。
『碧海の魔女』リネットと、銀の風が静かに告げる。リネが自身で名乗っていた、そしてソラも教えられた名だ。そこまで考え、少年はふと風のささやきのことを思い出した。あれはいったいなんだったのか、結局謎は解けていない。けれどもソラは、不可思議な現象に関して考えるのをやめた。リネが口を開いたからだった。
「すごく昔のことだけど。ここより南で、小さな二国が戦争をしたの。普段、魔女はそんなの無視するんだけど、このときは事情があって少しだけ介入したのね。――結局、ほんの少しどころか、両陣営を壊滅手前まで追い込むことになったのだけど」
 ソラは軽く目をみはる。想像もしていなかった昔語りは、活版印刷の文章のように淡々として響いた。
「人の恐れをあおり、大地を破壊してしまった私は、これ以上影響が大きくなる前に、記憶と力を封じることにした。その後は、しばらくあてもなくさまよって――」
「あの国に、入った?」
「うん。孤児と思われたのか教会の人に拾われて、そこで暮らすことになった」
 そして、ソラがやって来るまでは、力のことも露見せずに普通の少女として過ごしていたのだ。散らばっていたものが、ようやく一本の線でつながる。返す言葉を探すソラに、リネはさっぱりとした笑顔を見せた。
「で、その封印を解く鍵が、私の真名だった、というわけです」
「なるほど」
 おおよそ納得した。しかし、残りにして最大の疑問は解決していない。ソラは相方に向けていた視線をもう一人の魔女に移す。
「魔女というのは、結局のところ、なんなんですか」
 率直に問えば、銀の風の魔女は嫣然とほほ笑んだ。
「『魔女』っていうのはね。人の理から外れた魔導士。そして、かつては東の女神に仕えていた女たちよ」
 ソラは、細く息をのむ。
 女神と聞いて思い出すのは、白銀の妖狐がこぼした言葉だ。
『神と魔女には関わりがある』
 混乱の中で何気なく落とされた言葉が、今になって繰り返し反響した。