第四話 誇り高き者たち・4

 辺りを見回せば、自分の住処に戻っていく幻獣たちの姿が目に付くようになった。里中に焚かれていた火も、数が少なくなっている。そろそろ宴も終わりだろう。
――夜は深い。ソラは、紺色に染まった空をなんの気もなしに眺めた。今夜は月も星も出ていないようである。
 彼は周囲に視線を戻した。卓を囲み、ジルテアとクイードが話しこんでいる。正確には、クイードがジルテアの話につきあわされていた。
 何しろ彼は狼なので、その表情は分かりにくい。しかし、疲労が全身からにじみ出ている気はする。先程まで、愛想のよい幻獣たちに話しかけられ続けていたソラは、共感を覚えて苦笑した。
 隣で空気が動く。見ると、タスクが欠伸をしているところだった。彼は軽く目をこすると、視線をソラへと投げてきた。
「意外と幻獣にも好意的な人がいるんだね。あ、それともフリかな? どっちにしろ、おもしろかったよ」
「人が疲れてるのを見て面白がるんじゃない」
 少年は、飄々としている友人をねめつける。しかし、笑みで受け流された。ソラはばかばかしくなり、それ以上拘泥するのをやめてため息をつく。
 視線の向こうの友人は、ソラと獣たちの会話を聞いて、それを記録に残しているだけだった。人間が出しゃばって余計なことを起こさぬよう、配慮したのかもしれない。
「あ、ジルテアさん。ひとつ訊きたいんですけどいいですか?」
――ただ、人間好きの妖族の前には、そんな配慮も存在しないようである。
 クイードを捉えていた緑の目が、タスクを見た。
「よいぞ。なんだ?」
「実は、昔の書物をあさっていたら気になることがあって……。幻獣と魔女に交流があったって、本当ですか?」
 ソラは叫びかけて、慌てて口を押さえた。ちらと背後を振りかえると、目を大きく見開いてクイードが固まっている。
 ソラはこわごわと里長に視線をやった。しかし、彼の予想に反して長はずいぶんと冷静である。
「なんだ、その話か」
 つまらなさそうに呟いたジルテアは、銀髪をかきあげた。
「大昔は交流があったぞ。奴らの技術を種族に持ちこんでいた」
「うわ……魔女って本当にいるんですね」
「うむ。だが、何百年か前の大げんか以降は、対立しておるよ」
 幻獣が喧嘩というとき、それは戦を指す。何年か前に、父からそう教わっていたソラは、陰で身震いした。
「魔女というやつは、普段は他の人間よりもずっとき前のいい奴らなんだが、一度戦いを始めると、恐ろしいのなんのって……」
 喜々として語っていた声がふっと途切れる。同時にソラも、広がる夜空を仰ぎ見た。その一瞬前に全身を駆け巡った、そばで火花が散るような感覚がまだ体に残っている。
 間もなくソラは瞠目した。紺色の空に、蒼い光が浮かんで消える。地上を見やると、タスクが目陰を差していた。
「なんだろ、あの光。ソラ、分かる?」
「あれは……」
 勢いで答えかけて、ソラは口ごもる。思わず幻獣たちを一瞥した。――隠していても得はない。そんな言葉が、頭に浮かんだ。
「あれは、リネが発したものだ」

 アルツの相手がリネであることは、幸運だったのかもしれない。これがソラだったら、体力面は問題なくともかなり気疲れをするだろうが、リネもアルツもおおよその年齢は近い。あまっている体力も気力もそう変わらないのだ。
『おねーちゃん! 鬼ごっこしよう!』
「よしきた!」
 ぴょんぴょんと跳ねるアルツに対し、リネは満面の笑みで答える。するとアルツは、そのまま一目散に走り出した。
「私が鬼なの!?」
 リネは声を上げつつも仔狼の姿を追いかけはじめる。しかしそこで、走りながらもふと周囲を見渡した。天も地も鬱蒼と茂る葉に覆われているため、あたりは里よりずっと暗い。冗談ではなく、アルツを見失わないようにしなければ――そんな思いが、少女の頭をよぎった。ぐっと唇を噛み、止まりかけていた足を再び動かす。
 そんなふうに張り切った結果、リネは死に物狂いで獣の子を追いかけるはめになった。彼はとにかく速い。そして身軽だ。道端の石ころを跳んで避けたかと思えば、そのまま木登りを始め、無邪気に鬼をかく乱する。
「ちょっとアルツくん! 速すぎるよ!」
『へへーん! 毎日たんれんしてるからさ。捕まえてごらーん』
「……生意気……」
 リネは「魔術」を使ってやりたい衝動にかられたが、ぐっとこらえた。相手は幻獣種族だ。うかつなことをして、里の者たちの怒りを買わないようにしなければならない。彼女自身のためにも、相方のためにも。
 彼女が渋い顔で茂みをかきわけたとき、アルツの動きが止まった。大きな目をいっぱいに見開いて、何かを見つめているようである。
 彼の態度に気付いて、リネは首をひねった。
「どうしたの?」
『おねえちゃん、あれ』
 アルツが、目線で茂みの先を示す。リネはそれを追いかけて、押し黙った。
 人影がある。辺りが暗過ぎて、ここからではどんな人かは全く分からない。ただ、その人は木の前に立ち、何やらぶつぶつと呟いていた。リネは盗み聞きを試みて、すぐに諦める。声が小さすぎて聞きとれなかったのだ。
 リネもアルツも、明らかに不審な人物に対して眉をひそめはしたが、このことを深刻に捉えてはいなかったのである。次の瞬間までは。
『あっ……!』
 辛うじて押し殺された悲鳴が響く。リネもその隣で息をのんだ。
 ぶつぶつ言っている人影のそばに、別の影が複数現れる。それは周囲のにおいをかぎ回り、やがて人影に付き従った。
 獣だ。それも、ただの獣ではなく、魔獣だ。
「まじない師……魔獣使い」
『あれが?』
 素っ頓狂な声を上げたアルツが、まん丸の目でリネを見上げる。
『どうしてあんなところにいるのかな?』
「分からない。でも……」
――あんなところで魔獣を呼びだしているのだから、この森に危害を加えるつもりなのは間違いない。浮かんだ言葉を飲みこんで、リネは踵を返した。
「とにかく、早くソラたちに知らせないと」
 一人と一匹は、背後をうかがいながら元来た道を戻る。厳しい顔のリネの後を、アルツがおたおたと追った。リネたちと、まじない師との距離は徐々に開いていく。やがて視界が茂みに覆われ始めて、リネは少し緊張を緩めた。後ろを確かめようと振り返り――
 戦慄した。
 遠くに見える人影の中の両目がぎょろりと動き、こちらを見たのだ。
 気付かれた、と少女は直感する。
「アルツくん、走って!」
 言うと同時に、リネは自らも矢のごとき勢いで走り出した。彼女は咄嗟に、力の塊を空へと打ちあげた。紺色の夜空に光が瞬くのを見る。これだけやれば、ソラたちも異変に気づくだろう。
 そう思ったリネの背を打ったのは、甲高い声だった。
『おねえちゃん! 何かおいかけてきてるよ!』
「え……」
 震えるアルツの声に振り返り、リネは一瞬固まる。
 茂みを飛び越え踏み越えて、獣が追ってきている。暗闇のせいで姿形は分からないが、彼女は獣がなんであるか知っていた。
「魔獣……!」
 このまま逃げ続けても、いずれは追いつかれる。そう判断したリネは素早く反転して、魔獣の大群と対峙した。
『おねえちゃん!』
「アルツくんは里に戻って」
 黒い塊を見据えて、少女はぴしゃりと言った。彼女を追い抜かしてその背に回っていたアルツは、少し迷う素振りを見せた。が、やがて、落ち着いた足取りでリネの隣に並ぶ。
「ちょっと……」
『ぼくも戦う。小さくたって、"げんじゅう"の仲間だもん』
 アルツの態度はあっさりしていた。子供とは思えないほどに。リネはしばし呆気に取られていたが、細くため息をつくと、ゆっくり首を振る。
「しょうがないな。――構えてよ!」
 魔獣たちは、もう目前に迫りつつあった。