第五話 闘争の痕・2

 三人と一匹は、鋭く相手を睨みつける。
 実はこのとき、リネはまじない師の変貌ぶりに違和感を抱いていた。先程目撃したときには狂気を感じるぎょろりとした目だったはずが、今は冷徹な光を湛えた切れ長の目に変わっていたからだ。
 ただ、当然その場に居合わせていなかったソラやタスクは「おかしさ」に気付けない。警戒はしていても、リネのように極端な不気味さは感じていなかった。
「おまえは……あのときの女の仲間か」
「ああ、そうだとも」
 確信を得るための問いに、笑い含みの声が返ってくる。予想が当たったことに悪態をつきたい気持ちを押さえ、ソラは努めて冷静に言葉を続けた。
「それがこんなところで何をしている? ご丁寧に魔獣まで用意して」
「大した理由があるわけではないさ。ただ、幻獣どもを困らせてやろうというだけだ」
 愉悦に満ちた声にははぐらかすような響きがある。が、偽りの気配はない。ソラは仲間たちと視線を交差させる。リネもタスクもアルツでさえも、「不可解」と目が語っていた。
「……君らと幻獣の間に、いったいどんな因縁があるっていうんだ」
 やんわりと、しかし唐突にタスクが口を開く。まじない師は喉を鳴らして笑った。
「些細なことさ。我々は彼らの理想郷を荒野に変えたのさ」
「理想郷?」
――初めて聞いたような、そうでないような言葉。無造作に投げられた答えに、ソラの胸がざわつく。何故か、今この状況で、遠い昔の記憶を汲みだそうとしている自分がいることに、ソラは不審を覚えた。
 彼の心情を察したのか違うのか、まじない師がにい、と笑う。
「そうだよ。白竜の小せがれ」
 直後、まじない師の姿が消えた。三人は呆気に取られて辺りを見回したが、もはや何の痕跡も残っていなかった。魔獣でさえも。ただただ不気味な静寂が広がっている。
「あいつ、里に向かったのか?」
「そうかもしれないね。早く戻った方がいいよ」
 眉をひそめたソラの呟きに、タスクがあくまでも冷静に答えた。少年とその相棒は情報屋のさらりとした言葉を聞いて視線を交わすと、各々の得物を構える。
「戻ろう。急ぐに越したことはない」
 きっぱりとした一言をきっかけに、二人とアルツは遠くに見える魔獣の群れへと突っ込んでいく。その背中を追いながら、情報屋は呟いた。
「たくましくなったなあ、あいつ」

 行きとは逆に、今度は里へ近づくほど魔獣の数が増えていた。おぞましき生物の行軍を警戒しているのか、森の動物たちは一匹も姿を見せていない。やはりまじない師は里へ向かったのか――三人と一匹は、同じことを考えていた。
「ま、ジルテア様やあそこの住人達が簡単にやられるとも思えない。むしろこっちが焦り過ぎてヘマしないようにしないとな」
 呟きつつ、ソラは横目でアルツを見やる。先程から積極的に戦ってくれている仔狼は、父親のことを心配しているようだった。
『父ちゃん、大丈夫かなあ』
「大丈夫だよ! すっごく強そうな人だもん、クイードさん」
 項垂れるアルツを撫でて励ましているのは、リネだ。微笑ましいやり取りに、少年たちは思わず頬を緩める。だが、前方から低いうなり声が響くと、全員が表情を消した。
 彼らの行く手に、おびただしい数の獣が立ちはだかる。ソラは、道の上が黒い身体と赤い目の光に染まる異様な光景に、ぐっ、と眉をひそめた。
「うげっ……。これを突破するのはさすがに厳しいぞ」
「かといって、大人しく食われてやるわけにもいかないよねえ」
「当たり前だ」
 友人の軽口を切り捨てたソラは、一度銃をしまって、格闘の構えをとった。瞳がゆっくりと黒から青へ変わってゆく。
 そのとき、隣にいたアルツの耳がピクリと動いた。
 刹那、空気が動く。一陣の風が吹き抜けたかのように、木々がざわめいた。そして直後、獣道にひしめく魔獣たちが、四方八方へ吹き飛んだのである。
「えっ!?」
「なっ……!」
 リネとタスクが驚愕の叫び声を上げる。しかしソラとアルツは、平然としたままだった。目に見えない力の正体に気付いたのだ。
 ソラは短く息を吸う。
「ジルテア様」
 凪のごとく静かな声が夜を打つ。呼びかけに応えるように、終点のない暗闇の中から、白銀の狐がゆっくりと姿を現した。
『あ、ジルテア様だ。よかったー』
 悠然たる妖狐の姿にもまったく動じないアルツが、肩の力を抜いた。むしろ長の登場で緊張がほどけたようだ。
 一方のジルテアは三人と一匹を順繰りに見回すと、太い尻尾をゆらゆらさせた。
『皆、無事だったか。しかし――何が起きているのだ?』
 緑の瞳が純粋な疑問に揺れる。ソラの小さなため息を合図に、これまでの出来事を全員で説明した。ジルテアはすべてを聞き終えると、不快そうに眉をひそめる。
『まじない師……奴らが出てきたか。いったい何を考えているのやら』
「そこまでは分かりません。ただ、この地に魔獣を放ち、混乱させようとしているのは確かかと」
 ソラの言葉に、ジルテアが「むう」とうなる。
 難しそうな顔を見つつ、ソラは逡巡していた。訊いてもいいのか、どうなのか。まじない師の声が、言葉が、繰り返し頭の中にこだまする。
「ねえ」
 声を上げたのはタスクだった。彼は狐の目が自分を見たと確認すると、にっこり笑って――
「さっきまじない師が『理想郷を荒野に変えた』とか言ってたけど、あれどういう意味なの?」
 直球の質問を投げつけた。和やかなタスクとは対照的に、ジルテアの目は鋭く細められる。刃のような沈黙が、両者の間に流れた。
 ソラは無言の二人を、心臓が凍るような思いで見守っていた。だが、やがてジルテアの長いため息が不穏な沈黙を破る。
『そのままの意味だ。三百年ほど前に、我らが住んでいた森にまじないがかけられた。それ以来、理想郷と呼ばれた森は荒野に変わり、我々は故郷を追われた』
 淡々と語られる昔話に、気付けば全員が聞きいっていた。――つまり、そうして故郷を離れざるを得なくなる前は、幻獣種族たちがひとつの大きな森にまとまって住んでいたということだろう。
 声が途切れると、リネが手を挙げた。
「まじない師って、そんな大がかりなこともできちゃうの?」
 素朴な疑問だ。けれど、ジルテアは少女の質問をきっかけに過去の仇への敵意をむき出しにした。それでも口調だけは冷静である。
『普通ならば不可能だ。まじない師は神ではない』
「ならどうやったの?」
 リネがさらに首をかたむけると、ジルテアはわずかに目を伏せた。
 不思議な響きを持つ声が、森の中に染み込んでいく。
『――魔女の一人を操ったのだよ』
 思いもよらぬ言葉に、三人が絶句した。落雷のような衝撃が一行を駆け巡る。
 驚きからいち早く立ち直ったのは、タスクだった。彼はジルテアを問い詰めようとしたのか口を開きかけるが、それを空の使者がさえぎる。
『じ、ジルテア様ー!』
『む、何事だ!』
 夜を切って飛んできた天族に、ジルテアが叫んで返す。天族は切羽詰まった様子で告げた。
『集落に突然、不審な人間が侵入してきました!』
 なんともいえぬ沈黙が広がる。その中で、ソラは肩をすくめた。
「無駄話をしている暇はなさそうだな」