第五話 闘争の痕・3

 それは、実に異様な光景だった。黒い衣をまとった痩身の男を獣たちが取り囲んでいる。決して剛健に見えない男は、危機的状況であるにもかかわらず、薄気味悪い笑みを浮かべていた。
 里に急行したソラたちは、見覚えのある姿を見つけて顔をしかめる。一方、ジルテアは臆せず、堂々たる足取りで獣の輪を抜けて男をにらみつけた。
『貴様が、あの禍々しい生き物を呼んだまじない師だな?』
「そのとおり。お初にお目にかかります、ジルテアどの」
 男はあっさり答え、恭しく一礼する。幻獣の中の誰かが憤怒のうなり声を上げるのを、ソラは確かに聞いた。だが、里長の妖狐は動じない。冷やかな目で侵入者を睨む。
『なぜこのような真似をした』
「なぜ、と言われましても。単なるいやがらせですよ」
『嫌がらせだと?"理想郷"の件もそうだと、言うのではあるまいな』
 緑色の瞳の奥に、怒りの炎がちらつく。周囲の者たち――ソラたちも含め――は彼女の怒気に竦み上がった。そんな中、まじない師だけは、湿っぽい笑い声を上げる。
「確かに、理想郷の件までそうとは言いませぬ。あれは、我らが主の命」
『主とは?』
「――神、ですよ」
 さらりと放たれた言葉に一同は沈黙する。中でも人間たちは、口を開けて呆けていた。リネやタスクだけでなく、人と獣の子であるソラにとっても、神というのは架空の昔話に出てくるだけの存在だったのだから。
『ふざけているのか?』
 ジルテアがうなるように言う。まじない師は不気味に微笑した。
「とんでもない。あなたたちはよくご存じでしょう。この世界にとって、神がどのような存在なのか」
『あれを神と呼ぶのか』
「人間たちはそう呼びまする」
 ジルテアの詰問に言葉を返すまじない師は、他人事のように締めくくる。彼は周りの人と獣に一通り目を配ると、衣の下で陰湿な表情を浮かべた。
「さて。下らぬ問答は終わりにしましょう」
 宣告する声は冷え切っていた。色のない腕が振り上げられると同時に、その場にいた者たちは一斉に身構える。
 次の瞬間、まじない師のまわりから黒煙が立ち上る。黒の絵の具をぶちまけたような煙は、ひどく異質なものだ。
『まじないだ!』
 誰かが鋭く叫ぶと同時に、人と獣は示し合わせたかのようにまじない師から距離を取った。ソラは銃を、リネは棒手裏剣を構える。
『なんだ、あの禍々しいものは……』
 ソラの近くにいる幻獣がうなるように呟いた。ソラは眉をひそめるだけだ。彼の絶望に似た疑問に答えられるような言葉は、持ち合わせていなかった。
 まじない師が薄く笑う。すると、煙は蛇のような形をとって、ソラたちの方へと向かってきた。風のような速さで宙を駆けながら、蛇はいくつもの頭に枝分かれする。ソラは素早く、そのうちのひとつを撃ち抜いた。幻獣たちも、口腔から力の塊を放つ。塊が蛇にぶつかり、銃弾とともに弾けると、煙は音もなく四散した。
「やはりこの程度では足りないか」
 笑いを含んだ声が降る。そのとき、ぞっと肌が粟立つのを感じて、ソラは反射的に飛び退いた。
 一瞬ののち、彼が立っていた地面に黒い針が勢いよく突き出してきた。太く鋭利な針は目の前の獲物に狙いを定める直前、どこからか飛んできた白銀の球によって爆砕される。
『ソラ、大事ないか?』
「はい、ありがとうございます」
 銃を相手に向け、肩で息をしながら、ソラは妖狐に短く礼を述べた。ジルテアは一瞬頬を緩めたものの、すぐに苦々しい顔つきになる。
『しかし、あれは妙なまじないだな』
 ふいにこぼれた彼女の呟きに、ソラは軽く首をかしげた。
「妙、とは?」
『攻撃に特化しすぎておる』
 あっさり言った後、ジルテアはこう付け足した。
『まじないは占いやはらいの延長のようなものだからな。本来、直接的な攻撃の術はほとんどないのだよ』
 魔の世界をよく知るジルテアならではの指摘だ。ソラは眉を曇らせる。
 難しい顔の少年に追い打ちをかけるかのように、隠れ里の長は呟いた。
『おそらくは、奴らの言う"神"に余計な入れ知恵をされたのだろうな』
――神、とはなんなのか。
 ソラにとってみれば、それはひどく曖昧で信じがたいものだ。生まれてこの方、神の存在を感じたことがない。しかし、ジルテアやあのまじない師は先程から、まるで神が実在するかのように振舞っている。ならば、それは一体何者か。
『ソラ』
 ジルテアの呼び声で、ソラははっと我に返る。
『今は多くを語っている暇はない。しかし、これだけは覚えておくとよい。――神と魔女は、とても深い関係にある』
 底知れぬ闇を伴った言葉に、少年は戦慄する。
 彼がその意味を知る前に、現実の闇が彼らに向かって大きく口を開いた。
『我々をなんだと思っている!』
 怒りの咆哮とともに炎を撃ったのはクイードだ。彼の放った炎は闇の中心で弾け、なおもあかあかと燃え上がっている。炎はときおり、小さな爆発を起こした。不定期に連続する爆発音を聞いたソラは、地面を蹴る。
 一瞬で距離を詰めて、まじないの闇と幻獣の炎に向けて発砲した。
 すると、とうとう大きな爆音とともに闇が弾け飛んだ。術を破られた影響か、まじない師が苦しげな表情を浮かべる。その隙に、ジルテアがソラの脇をすり抜けた。凄まじい速さで黒い衣へ迫ると、白い熱を帯びた爪を振りかざす。すれすれで攻撃をかわしたまじない師だが、わずかに爪撃がかすり、衣の端が焼け落ちた。
 まじない師の動きが鈍る。機をうかがっていた幻獣たちは、一斉に彼を攻撃した。炎も水も、槍も光弾も、黒衣にぶつかって爆発する。頭の奥まで貫くような爆音のあとには、不気味な静寂が訪れた。
『終わったか?』
 幻獣の誰かが言う。だが、ソラは構えを解かなかった。
「……まだだ」
 刹那、唐突に煙が晴れる。その向こうから黒い玉が飛んできた。まじないの力で作りだされた、破壊の力の塊である。人の顔二個分もの大きさがある。幻獣たちは束の間、その大きさに呆然とした。ゆえに、対応が遅れた。
「まずい!」
 そう叫んだのは誰だったか。
 警告の叫びと共に人間たちが動きだす。ソラの発砲とリネの投てきが重なり、弾丸と刃が黒い玉の中心を貫いた。飛沫が散り、砂のように消える。そうしてあいた穴はしかし、すぐにふさがってしまった。
「まあまあか」
 ソラは呟く。
 ここまでは思惑通りだ。『あれ』を無理して壊す必要はない。時間を稼げればよいのである。
 黒い玉が迫る。あと少しで、皆を飲みこむと思われたとき――ソラたちの眼前に、氷の壁が出現した。黒い玉と巨大な氷壁はぶつかり合い、双方が弾け飛ぶ。
 だが、十分だ。ソラはその目に相棒の姿を捉え、不敵に笑った。
「でかした、リネ!」
 黒い玉を防ぐため前に出ていたリネは、細く息を吐いて左足を後ろに引くと、右腕を突き出して指揮者のように振った。すると、飛び散った氷の欠片が空中で一瞬停止し、すぐにまじない師へとがった先を向けて飛んだ。
 男は軽く瞠目する。
「ほう。こいつが例の魔導士か……」
 呟きと同時に、彼の周りの地面から黒蛇のような糸が顔を出す。それは空中に身を乗り出すと氷の刃をすべて砕いた。だが、黒糸も間もなく引きちぎられる。天族のものが、風の塊をぶつけたのだ。さらにその隙間を縫って迫った牙族の女が、糸に直接食らいつく。
 予想外の猛攻に驚いたようで、まじない師の動きに隙ができてきた。鈍りに目をつけた一体の牙族が、地面を蹴って男へと向かう。すぐさま間合いを詰め、喉笛に食らいつかんと襲いかかった。けれどまじない師は彼の予想より素早く、この攻撃もぎりぎりのところでかわす。
「なかなかやるな」
 まじない師が面白そうに言う。その牙族――クイードは執念深かった。遠くから静かに第二撃の瞬間を狙って足をたわめる。まじない師は口調と裏腹の冷たい目で彼を見つめた。
 薄氷のような沈黙。――狼の足が地を蹴る音が、その沈黙を引き裂いた。
 周りの者が驚くような速さでまじない師に向かう。彼はまたも一撃をかわそうとした。だが直後、彼の足に穴があく。乾いた銃声と共に血が噴き出した。
 初めて、男の顔に劇的な動揺が生まれた。
「油断しちゃいけないな」
 まじない師の視線の先には、不敵に笑う少年。彼が両手で構えた銃の口からは、白い煙が細く立ち昇っている。不意を突かれた男は血走った眼で少年を睨んだ。
 だが、激烈な殺意はすぐに消え失せる。まじない師は少年、ソラから目を逸らすと、夜空を見上げていびつに笑った。
「おや。魔獣どもが騒いで……」
 ひとりごちたまじない師。彼は、幻獣と特異な人間たちに対するあからさまな敵意を収め、片手を無造作に振った。衣のすそが風を切ってうなる。何が起こるのか、と全員が身構えたが、警戒していたような危険なことは何も起きない。ただ、魔獣のせいで騒然としていた里の外周が静かになったように、ソラには思えた。
 まじない師は笑い含みの声を漏らす。
「なるほど、なるほど。彼らは十全に役目を果たしてくれたようだ。これ以上、ここに関わる理由はない……」
「何?」
 ソラは眉根を寄せて相手を見る。彼に限らずその場のほとんどの者が訝しげに乱入者を見たが、乱入者は彼らに答えをくれなかった。厚手の衣をさばくと、呆然としている面々に向かって言う。
「なかなか楽しかったが、どうやらここまでのようだ」
『――ま、待て!』
「機会があれば、また会おう」
 クイードの制止の声。まじない師はさらりとそれを無視して里の者たちに背を向けた。
 黒衣の背にジルテアが無言で銀の塊を放つ。けれど塊が直撃するより早く、まじない師の姿は消えた。黒い影が、夜の闇へ溶けてゆく。
 後に残されたのは、重い沈黙と、呆然とする人と獣だけだった。