ひたすらに暗かった空の端が、うっすらと白み始めた。薄絹のような光に気付いたソラは、なんとはなしに目を細める。
思えば長い夜だった。宴に誘われたかと思えば、魔獣の襲来。そして、息つく間もなくまじない師が里にやってきた。盛りだくさんもいいところである。
『そうか』
耳に飛び込んできた女の声。覚えのある声に誘われたソラは、目線を地上に戻した。狐姿のジルテアが、鷲のような天族から報告を受けているところらしい。彼女が鷹揚にうなずいて指示を飛ばすと、天族はまたどこかへ飛びさっていった。
ソラはおもむろに、ため息をついているジルテアへと歩み寄った。
「どうでした?」
『本当に魔獣どもは一体もいないそうだ』
「……そうですか」
悔しそうな呟きに、ソラは眉を寄せる。
いいように弄ばれた。そう思っているのはジルテアとて同じだろう。ソラの脳裏に、かつての討伐作戦の光景がよぎる。
『ただな』
ふいに割り込んできた声に少年は身を固くした。彼のわずかに緊張した視線を受けたジルテアは、沈痛な面持ちで続けた。
『森の各所に妙なものがあったそうだ』
どことなく歯切れの悪い言葉に、ソラが首をひねる。
「妙なもの?」
『……痕だよ。巨大な爪で地面をえぐったような痕跡が、少なくとも二十程あったそうだ』
「な、なんだそれ……!」
ソラは唖然として口を開く。彼には、この奇妙な事実がただの偶然とは思えなかった。頭の中でまじない師の声がこだまする。
――なるほど、なるほど。彼らは十全に役目を果たしてくれたようだ。
あの男が言っていた役目とはなんなのか。考えたソラは背筋が寒くなるような気がして身をすくめた。一方、彼の隣にいる妖狐は静かな顔のままである。
「ジルテア様……」
『分かっている。怪しいとは思っているとも』
憂いの声をさえぎるように、ジルテアは言った。ゆるゆると首を振る。それから、緑の目が暁の空へと向いた。
『件の痕については、腕の立つ者に調べさせるつもりだ。先程、そう指示しておいた』
ソラはうなずいた。調べたところで事態が好転するわけではないだろうが、何もしないよりはましだろう。
ふいに、ジルテアの目が細められた。何かを悩むように。そして、何かを決意するように。彼女は遠くの空を仰いだあと、訝る少年に向き直る。
『なあ、ソラ』
「はい」
『あの人間たちを呼んできてはくれぬか。したい話があるのだ』
「――? 話、とは?」
ジルテアは少しの沈黙のあと口を開いた。
『"理想郷"についての話だ』
寒々しい空間に、凍てつくような沈黙が満ちている。
ソラたち三人が案内されたのは、ジルテアと初めて会った洞窟だ。居合わせているのは彼ら三人とジルテア、そして里の主だった幻獣たちだけである。中にはクイードの姿もあった。
『ジルテア様……』
幻獣たちの中から、遠慮がちな声が響く。妖狐は振り返った。
『なんだ?』
『ほ、本当にお話しになるのですか? "理想郷"について』
『ああ』
ジルテアは即答する。幻獣たちの多くが戸惑って囁きあい、洞窟にさざ波のような音が響く。だが、里長の妖族はそれすら見越していたのか、淡々と言葉をつなげた。
『お主らの心情はもっともだが、「だからこそ」話すべきだと私は思う。あれから永い時が経った。忌まわしい歴史を雪げるのは、若い世代しかおらぬだろう。……ソラも含めて、な』
静かな、しかし力強い言葉を受けて幻獣たちは押し黙る。その間隙を縫うように、ジルテアは語り始めた。
『その昔――私がまだ、若き妖族だった頃、大陸北部に大きな森があった』
招かれた三人が息をのんだ。いつも飄々と質問をするタスクでさえ、目をいっぱいに見開いたまま微動だにしない。
このときの彼らには及びもつかぬことだが、ジルテアの若い頃といえば、ソラはおろか、生粋の天族だったフウナすら生まれていない時代である。
『トルガの森、という名だったのだがな。我々は"理想郷"と呼んでいた。当時は、世界のすべての幻獣が集まり、豊かな自然とともに生きる、まさに理想の土地だった』
そのときのジルテアは、遠い過去を思い出そうとしているように、静かに目を閉じていた。だが、すぐにその両目を開くと、昔語りを続ける。
『我々はそこで平穏に暮らしていた。ときおり外界の魔女と交流をしながらな。この平和は永遠に続くものだと思っていたよ。――だが、そうはならなかった』
長いようで短い沈黙が広がる。続く妖狐の言葉は、悲痛な響きを持っていた。
『あの事件には、明確な善悪など存在しないと、私は思っている』
「――何が、あったのですか」
ソラは恐る恐る尋ねた。ジルテアの答えはすぐには返らなかったが、やがて彼女は厳かに語り始める。
『偶然の出来事だった。我々を討伐しようとした人間が森に踏み入り、とある牙族がそれを捕らえた。殺すか否かで論争になったが、さる魔女の仲裁で事なきを得たのだ。――だが、問題はここからだった。
その人間どもが、報復に、と幻獣の子どもを襲ったんだ。そして居合わせた天族が、奴らへの怒りと子どもを守ろうとしたのとで、人間を殺してしまった』
重い空気が漂う。一方は言葉が見つからず、一方は何も言いたくない。二つの色が滲んだ空気。そんな中で、ジルテアの声だけがはっきり響いた。
『これに魔女たちが怒った。単に同胞を殺されたからというだけではない。以前、魔女が仲裁に入ったとき、人を殺さないことを幻獣種族側が約束していてな。魔女たちは、その約束を反故にされたことに腹を立てたんだ』
ソラは苦みを帯びた語りを聞きながら、以前訪れた地で聞いた話を思い出していた。魔女に対する新しい見解だ。曰く、魔女は潔癖で誇り高く、誓約や約束を重んじるという。ジルテアが語った騒動は、彼女らの一面が如実に示されたものだったのかもしれない。
『その後、幻獣種族と魔女は、幾度となく争った。この時代を知る者の中には、魔女に反感を抱く者も少なくない。そして今から三百年ほど前――ついに、状況が動いた』
ジルテアの声と表情が、暗く、冷たく沈みこむ。その場に痺れるような緊張が走った。
『あるとき、トルガの森に魔女の一人がやってきた。二人ほどのまじない師を連れていた』
妖狐の声さえも、緊張しているようにソラには思えた。だがそのとき、彼の耳は話を聞く一方で別の音を捉えていた。
「あれ……?」
囁くような声に振り向けば、リネがこめかみを押さえている姿が見えた。その姿勢のまま、何事か呟いている。
「あれ、わたし、なんで……」
「リネ?」
「そう。確か、すごくぼんやりしていて、分からなくて、何も、届かなくて。幽霊みたいな、足取りで。知らない二人がそばに、いて、とても、恐ろしい――」
「おい、リネ」
ソラが重ねて呼ぶと、リネははっと顔を上げた。それから、ゆるゆると首を振る。訝しげなソラを見て、恥ずかしそうな笑みを作った。
「ご、ごめん。気にしないで」
あの様子で気にしないでと言われても無理な話だ。ソラは苦い顔になった。だが、タスクやジルテアを含め、誰もこのことに気づいてはいない。仕方なく彼は白い狐へ向き直った。
彼女の話は続いていた。その続きを聞いて、二人とも表情を凍らせる。
『彼女は当時の種族長と何事か話をした後、唐突に己の力を振るったのだ。
森が黒く染まった。炭くずでもかけられたかのようにな。木々は枯れ、動物たちは死に絶え、我々は故郷を追われた』
あまりにも壮絶で、残酷な話。ソラたち三人は息を詰めて耳を傾けていたが、妙な既存館を覚えて目を見開いた。
「炭くず……黒?」
記憶が弾ける。
森の中、切り取られたかのように佇む。
不自然なほどに鮮明な黒。
そしてその影から這い出てきたのは、不自然な化け物たち――
「っ、まさか」
冷水をかけられたかのような心地で、ソラはタスクとリネを見る。二人とも同じように目をみはり、心なしか蒼い顔をしている。
真っ黒に染まり、枯れた森。それは、里を囲む森を探索しているときに見た、黒ずんだ木をほうふつとさせた。
『どうした?』
ジルテアの怪訝そうな声に、三人は揃って肩を震わせた。そしてソラは洞窟の中の幻獣たちがことごとく自分を見ていることに気付くと、恐る恐る口を開いた。
「その……俺たちが里を探して森の中を歩き回っている途中に、木を見たんです。まっくろな、それこそ炭でもかけられたんじゃないか、っていうような木を」
少年が言うと、洞窟内がどよめきに満ちた。ジルテアやクイードさえも驚いて固まっている。そんな空気の中でリネが身を乗り出した。
「し、しかもね! その木の陰からたくさんの魔獣が出てきたんだよ! あなたたちが倒しちゃった、あの魔獣!」
どよめきが大きくなった。寡黙なクイードですら仲間たちと何事か言い合っている。洞窟中に混乱が広がった。ソラたちが身を小さくする一方、ジルテアは同胞を見回すと、鋭い声で『静まれ』と言った。すると、辺りは水を打ったように静まり返る。それを見計らって彼女はまた話しだした。
『私も、おそらくはお主らと同じことを考えている。理想郷を真に破壊したのは魔女ではなく、まじない師だ――とな』
ジルテアのまとう空気が一気に鋭くなる。ソラはごくりと生唾を飲み込んだ。
彼女は怒っている。暴かれた真実に、怒っているのだ。森を枯れさせる力を行使したのは親しかった魔女で、そうなるよう仕向けたのは得体の知れないまじない師。真の敵を知った今、妖狐は憤怒の感情を隠そうともしない。
激情をたたえた目は、そのまま人間たちに向けられた。
『私は考えていた。お主らと出会ったときから、ずっと』
語気は和らいだが、声音は未だ冷たい。ソラも、リネも、タスクも、ただ黙って聴いていた。
『"理想郷"を、トルガの森をよみがえらせる方法をお主らに探してはもらえないだろうかと、思っていたのだ』
思いがけぬ言葉に、三人は絶句した。ややあって、タスクが慎重に里長の言葉を反芻する。
「トルガの森を……よみがえらせる方法、って?」
『うむ。枯れさせたのが魔女とまじない師――人の力というのなら、逆のことも可能なのではないかと思ってな』
「な、なるほど」
タスクが自信なさげにうなずいた。ソラにもその心情は理解できる。言っていることが理解できるのとのみこめるのとは、全く別の問題だ。
それきりタスクとリネは苦しい顔で黙っている。ソラは彼らの横で手を挙げた。
「ジルテア様。つまりは、魔の力で森をよみがえらせることができるかもしれない。だからその方法を俺たちに探してほしい、ということですよね?」
『そうだ』
「なぜ、そのようなことを俺たちに頼むのですか?」
黒い瞳がまっすぐにジルテアを見つめる。彼女は、わずかに驚いたような顔をしたあと、ふっと微笑んだ。
『理由はふたつある。ひとつは、お主らが旅をしているからだ』
「旅をしているから?」
リネがきょとんとして訊き返す。ジルテアは、ああ、とうなずいた。
『幻獣種族は、人里に出て何かを探すことが難しいからな。変化しても、群衆の中ではどうにも浮いてしまう』
ジルテアの言うことには一理ある。ソラはうなずいて、同時に思った。人に変化して人間社会に馴染んでいた母フウナは、実はかなり力の扱いに長けた、すごい天族だったということか、と。
ソラは少し思考を巡らせたのち、顔を上げて、厳かな表情で問いかけた。
「それで、その……ふたつめの理由は?」
かすかに間が開いた。もはや誰ひとりとして口出しをしない状況で、薄い静寂だけが広がる。少しして、妖狐が答えた。
『もうひとつの理由は――お主が、カイルとフウナの子だからだよ、ソラ』
これには誰もが驚いた。皆が、名指しされたソラまでもが、ぽかんとして彼女を見る。注目を一身に浴びたジルテアは、くつくつと喉を鳴らして笑った。
『同胞たちには悪いが、私は混血児というのに期待しているのだよ。
――お主は、両親の掟破りの末に生まれた子どもだ。人と獣の血を継いで、な』
爛々と輝く目を向けられて、ソラは深く考えずうなずいた。妖狐は銀の尾をゆっくりと揺らす。
『これまでに辛いことがたくさんあったろう。人を、我らを、社会を憎んだこともあったろう。だが、お主はそれを乗り越えてきた。だからこそ、旧習にとらわれた我らとは違う目で、物事を見ることもできよう。まじない師や魔女のことも含めてな』
「つまり……」
ソラは言葉を続けようとして、しかし結局飲みこんだ。
彼女は、ソラを「架け橋」だと思っているのだろう。人間と幻獣、幻獣と魔女。壊れてしまった友情と誓約、隔たってしまった者らを繋ぐ、架け橋だと。
『やって、くれるか?』
ジルテアは問う。ソラは深く息を吐いた。それから、自分の無二の相棒を見やる。彼女は、青い瞳をまっすぐソラへ向けていた。
「リネ」
名を呼ぶと、リネはにっこり笑った。
「私は、どこへでも行くよ。ソラと一緒なら」
少女の言葉はまっすぐだ。時に危うささえ感じさせる一途さに、ソラは何度も救われている。今が、まさにそのときだろう。
ソラはひとつうなずくと、改めてジルテアを見た。
「ジルテア様。――あなたの頼み、お引き受けします」
今回の騒動の後始末が済むと、ソラたち三人は慌ただしく出立の支度をした。
この里での目的は果たしたと判断したのだ。そうなれば、明るいうちに森を出た方がいい。
『本当に、お主らだけで大丈夫か?』
自然の木のうねりで形作られた里の門。ソラ、リネ、タスクの三人がそこまで来ると、ジルテアは心配そうに訊いた。だが、ソラはしっかりとうなずく。
「ここまで来るときに、しっかり道は覚えましたから」
答える彼の口元には悪戯っぽい笑みが浮かぶ。ジルテアもわざとらしく目を見開いてみせた。
『ほう、そんな余裕があったのか』
「余裕と言いますか……いざというときに逃げられないと困る、と思ったので」
『はははっ! なるほどな!』
嫌みのこもった冗談を笑い飛ばす里長の横で狼が顔をしかめている。彼、クイードもまた、三人を連行した幻獣の群れの中にいたのだ。
両者の表情を比べておもしろそうにしていたタスクが、ふと視線を余所へ向けた。茶色の瞳に不満の色がにじむ。
「にしても、見送り来なかったね」
タスクの言葉につられて、ソラもジルテアの後ろ――つまり門内を見やった。
今、草原と見まごうほど広大な緑の地に、里の者たちはいない。仕事を終えたので、住処に引っ込んでいるのだろう。出立するソラたちの見送りに来てくれたのは、ジルテア、クイード、そしてアルツだけだった。
「ま、そう急に心象が変わるわけじゃないからな。石を投げられないだけましだろ」
幻獣と人間。容易には変えられない両者の関係を、彼はある程度冷徹に見ているつもりだった。昨夜、どことなく友好的に接してきた者もいたが、あれは単なる「ご機嫌取り」だろうと思っている。
しかし、ソラの辛辣な評価に対し、隠れ里の長はころころと笑った。
『私は、変わってゆくものだと思うがな。現に、今回の件でお主らに心を開いた者もいるようだった。クイードたちほど明らかでなくともな』
『ジルテア様! 私は決して……』
からかいの混じったジルテアの言葉に、クイードが猛烈に反論する。だが、彼ににらまれてもジルテアは動じなかった。穏やかな瞳でソラを見た。
『だからな、ソラよ。あまり自分を卑下するでない。両親が悲しむぞ』
「ジルテア様?」
『――おまえは、おまえ自身が思うほど汚い人間ではないよ』
温かい言葉は一方で、鋭かった。しかし、ソラが息をのむと同時に、ジルテアはいつもの笑みを浮かべる。
『気をつけてな。困ったら、またいつでも来るがよい』
彼女に後押しされて、ソラたちは里を出た。無邪気に尾を振るアルツに、リネが笑顔で応えている。相棒の横でソラは、さわさわと揺れる木を見ながら歩く。
――おまえは、おまえ自身が思うほど汚い人間ではないよ。
ジルテアの一言は、少年の頭の中に繰り返し響いていた。
風が吹いた。
ジルテアははっと顔を上げ、澄み渡る青空を仰ぐ。
『……不思議な風だ』
激しくなく、かといって弱くもない風。だが、まるで踊っているようなのだ。風自身が意思を持っているかのように、ふわり、ふわり、と舞っている。
ジルテアは目を細め、三人の旅人が去った方向を見た。
『彼に、反応したかのようだったが。……彼が何かしたのだろうか』
自問する。だが答えは出ない。奇妙な疑念ばかりが粛々と積もってゆく。思い悩んだジルテアは、やがて考えるのをやめた。
『ジルテア様、どうかなさいましたか?』
遠くから声が聞こえる。若く無愛想で、しかし実直な牙族の声。目の前に広がる世界を知らしめる声に、ジルテアはふっと微笑んだ。
『まあ、いずれ分かる時が来るだろう。答え合わせはそのときまでお預けだな』
彼女は誰にともなく呟くと、牙族の親子を追って隠れ里へと戻っていった。