幕間 信徒の国<水の章>

 大陸の南西、ある山のなか。誰も知らないような小さな国が、ひっそりと存在している。唯一の「古い神様」をあがめる信仰が強い、今となっては数少ない国だ。人々はお祈りすることを忘れず、神様への感謝を忘れず、神様に敵対する存在を、強く憎んでいる。もちろん、神様の敵が国のなかに入ってくるようなことはないので、人々は、ふだんは心穏やかに過ごしている。
 まるで、世界から忘れられたかのように、ゆっくりと時が流れる小さな国。そこには、いつからか、青い髪の少女がいた。

「あっ、リネ! こんなところにいた!」
 友達の明るい声を聞いて、リネは顔をあげた。机に広げていた分厚い本を閉じて、扉の方を振り返る。予想通り、ひらいた扉のところに、三人の少年少女が立っていた。彼らは、リネが見ていることに気づくと、元気よく歩み寄ってくる。そのうちのひとり、金髪を肩口で短くそろえた女の子が、リネに抱きついた。
「また、聖教の本よんでたんだ。リネってば、この国の人より勉強熱心かもねー」
「アリョーシャも見習ったほうがいいよ」
「なによう!」
 少年が横から口出ししてきたので、アリョーシャと呼ばれた少女は唇をとがらせ、少年頬を思いっきりつねった。少年は声をあげて痛がっている。さわがしい二人を見て笑ったリネは、顔の前で手を振った。
「べんきょうねっしん、とか、そういうのじゃないよ。私、ただ、ご本が好きなだけ」
 まだたどたどしい言葉づかいでそう言うと、まわりの子どもたちは優しい顔で、リネをなでたり肩をたたいたりしてきた。そのあと、遊びに誘われたが、リネは本を読んでいたい気分だったので、やんわりと断った。リネがあまり外に出たがらないことを知っている子どもたちは、嫌な顔をすることもなくうなずいて、来たときと同じように、さわがしく出ていった。
 三人がいなくなると、小さな図書館は、また静かになる。リネはほっと息を吐いて、本を丁寧に広げた。それまで見ていたページを探しだして、笑顔になる。彼女が見ていたのは、神様と悪い魔女が戦うという神話の一場面だ。最後には、神様が悪い魔女をやっつけるのだと、彼女は知っている。知ったうえで、何度も読み返していた。
――彼女は、勉強熱心だから、信仰心があるから本を読んでいるのではなかった。
 リネはこの国の生まれではない。二年ほど前、国の路地裏で目ざめたところを、教会の人に保護された。聖教の教えは彼女にとっては身近だったけれど、どことなく違和感をおぼえるものだった。
 だから、彼女は神様には興味がない。聖教の教えも、しだいにどうでもよくなってきた。
 彼女がひきつけられたのは、「魔女」のなのだ。
 人を殺し、海や大地を汚して、悪行の限りを尽くす。そして最後には、神様に殺されてしまう魔女。魔女のやることがいいとは思わない。むしろ怖いと思うくらいだ。けれど、不思議な力をふるう魔女に、どうしようもなくひかれた。
 リネもまた、普通の人にはない力を持っていたから。

 最初、「それ」に気づいたのは、教会に保護されて半年が経ったころだった。井戸から水をくんだとき、水のしずくが突然、飛び出してふわふわと舞ったのだ。そのときは、水はすぐ桶に戻った。けれどリネはそのとき、とても不思議な感覚をいだいていた。まるで、水と自分の手が糸でつながっているような感覚だった。その間隔は、不思議なことが起きてから、ずっと手に残り続けた。
 それからも何度も、水が勝手に動いたり、勝手に凍り付いたりした。もしかしたら動けと念じたら動くのかもしれない、と思って試してみたら、本当にそのとおりだったから驚いた。逆に、動くなと願えば、水はささやかな波紋すら起こさなくなった。
 水を操る。その力を持っているのだと、リネは気付いた。そのときに思った。――まるで、魔女みたい、と。
 それから、彼女は人目を避けるようになった。昼間はいつも図書館にこもり、門限が近づいたら教会に帰る。そんな日々は、一年以上続いている。

 この日も、太陽が傾きはじめて人どおりが少なくなったころに、こそこそと図書館を出た。ゆるい空気が流れる通りの端をゆっくりと歩いていく。町の北にたたずむ、教会の屋根を目印にして。屋台の屋根が、まぶしい通りにほどよい影をつくってくれている。リネは影と影をまたぐように歩いていた。
 いつもは、教会につくまでに、すれ違う数人の人と簡単な挨拶を交わすだけで済む。けれど、この日は、違った。
「きみ、そこのきみ」
 後ろから声がかかる。リネは、飛びあがって振り返った。
「ああ、ごめん。驚かせちゃったな」
 声の主は、そう言って笑った。リネより少し年上に見える少年だ。黒い髪から靴の先まで薄汚れていて、笑顔には疲れが見える。腰にぶらさがっている革のポーチのようなものに目がいきかけたが、その前に少年がまた声をかけてきた。
「きみ、この国の子だよな。どこか、宿屋を知らないかな。それっぽい場所がなかなか見つからないから、困ってるんだけど」
「……宿屋さん? それって、えと、おとまりする場所、ってことだよね?」
 リネは首をかしげて言った。少年は、うん、とうなずく。リネは少し考えこんだ。山の中にぽつんとある国だから、外から人が来ることはめったにない。けれど、誰も来ないわけでもないのだ。こういうとき、大人たちがどうしていたかと必死に考えて、思い出して、手を打った。
「あのね。お客さんはね、みんな教会に泊まるんだよ。だから、宿屋さんはないんだよ」
「えっ?……そうなのか?」
 少年は目を見開いた。それから乱暴に頭をかいて、教会か、と呟いている。リネはしばらく旅人の少年をぼうっと見ていたが、やがて名案を思いついて、手を叩いた。
「あのね、あのね。私、教会で暮らしてるの。ときどきね、お手伝いもするの。だから私が案内してあげる」
 リネがそう言うと、少年はまた驚いたようだった。けれど今度はふわりと笑って「そりゃ、助かるよ。ありがとう」と言ってきた。リネもなんだか嬉しくなって、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。彼女は少年のたくましい腕をとって「こっち!」と言い、走りだす。二人の影が、茶色い道に長く伸びた。

 旅人を連れて帰ると、神父様やほかの子たちは驚いていたけれど、泊まってもいいと言ってくれた。明らかにほっとしている少年にリネが「よかったね」と笑いかけると、彼も嬉しそうにほほえんでお礼を言い、リネの頭をやさしくなでた。神父さまと違ってその手はとてもかたかったが、温かくて、心が安らいだ。
 その日はリネも手伝いをしなくてはならなかったので、少年と話すことはできなかった。けれど、次の日の朝、彼を朝食に誘いに行くことになった。お客様用にふだんは開けてある部屋の前まで行き、扉を叩くと、むこうからくぐもった声が「どうぞ」と言う。リネは扉を開けて、めいっぱい笑った。
「おはよう、旅人さん! 朝ごはんだよー!」
「ああ、昨日の……。そっか、きみが来てくれたんだな。ありがとう」
 今行くよ、と言って、少年は寝台から腰をあげた。それから、ベルトに昨日もみたポーチのようなものを取りつける。リネは目をまたたいた。
「ねえねえ、それ、なんなの?」
 思わず戸口から声をかけた。すると、少年は少し困った顔をした。ベルトをぽんっと一度叩いて、リネの前まで歩いてくる。
「身を守るための道具が入ってるんだよ」
 そう教えてくれた少年の声は、なぜか悲しそうだった。けれど、リネが理由を尋ねる前に、彼は昨日と同じ笑顔で「さあ、行こう」と声をかけてくる。なので結局、聞きそびれてしまった。
 食堂に行くまでの道すがら、リネは好奇心から少年にいろいろなことを訊いてみた。少年は穏やかに、教えてくれた。その話が楽しくて、この日のリネは外へ出ず、かわりにあいた時間を使って彼の部屋まで行った。彼はやはり驚いていたが、リネが話を聞きたいとせがむと旅の話をしてくれた。
「――それで、大道芸を見ていたはいいんだけどな。その獣が突然暴れ出して、逃げだしてしまったんだよ」
「ええ、たいへん!」
「うん、大変だ。誰かを襲ってけがさせてはまずいと思った。だから俺は、全力でそいつの気をひきつけながら追いかけたんだ。おいかけっこは町の外まで続いたよ。いやあ、あれはさすがにはらはらした」
「それで、それで、どうなったの?」
「町の外の、川の手前まで追いつめたんだ。そこからは、芸人さんたちが捕まえる道具を持ってきてくれるまで、がんばってそいつと話をした」
「旅人さん、動物とお話ができるの!? 外の人はみんな動物とお話ができるの!?」
「……いや。たぶん、俺と同じことができる人はそういないよ」
 リネの、遠慮のない言葉にも、少年はひとつひとつ丁寧に答えてくれた。外の世界の話は、ひとつひとつが、きらきら輝く宝石のようだった。楽しい話も、悲しい話も、ちょっぴり危険な話も、もっと聞いていたいと思った。
 今まで自分が見てきた世界が、いかに小さかったか。リネはそれを思い知った。一度、旅人の話の虜になってしまってからは、今暮らすこの国が、箱庭のように感じられた。リネはそれ以降、時間の許す限り旅人と一緒にいるようになった。神父様たちは困った顔をしていたが、少年自身が「大丈夫ですよ。俺も楽しいですし」と言ったおかげか、リネがしかられることはほとんどなかった。平和で楽しい時間。ずっと続けばいいと思った。
 けれど、気がついたときには、明日には少年が旅立つという日になっていた。
 そしてこの夜、事件が起きたのだ。

 リネにとってはささいなことだった。旅の少年と話をしたあとで気持ちが浮ついていた彼女は、食前に水が動かないようお願いするのを忘れていたのである。食事には必ず飲み物がついているから、いつも念じることを忘れないはずなのに、だ。そのせいで、リネが自分の杯を手にした瞬間、中に入っていた飲み物のひとしずくが、ぷかり、と玉のように浮かび上がったのだ。水の玉がぷかぷか浮いているのを見て、リネは青ざめた。今頃になって自分の失敗に気づいた。慌てて、戻れ、戻れ、と強く願うけれどもう遅かった。アリョーシャの短い悲鳴が聞こえたのだ。
「り、リネ!? 何それ!」
「あ……え、えと、これは……」
 なんとか弁解しようとしたのだが、そのときにはもう、食堂は少女の小声をかき消してしまうくらい騒然となっていたのだ。リンが顔面蒼白でうろたえていると、神父さまが「静かに」と鋭く言った。決して大きな声ではなかったが、食堂じゅうに響いた一声は、騒ぎをぴたりとおさめてしまう。
 神父様は、食事中は静かにしなければいけませんよ、とみんなを諭した。おかげでまた静かな食事が再開されたが、漂う空気は重かった。
 食事を終え、神父様たちの祈りが終わって日が沈むと、子どもたちは床につく。
 それからしばらく経ったころ。リネは、まっ暗闇の中で目をさました。まだ夜中だとすぐに気づいて寝なおそうとしたが、目がさえてまったく寝付けない。今までこんなことがなかったので、少し怖くなった。リネは起きあがってしばらくそのままの姿勢でいたが、とうとう落ちつかなくなって部屋を抜けだすことに決めた。同部屋の子を起こさないように、そうっと出てゆく。
 どこもかしこも真っ暗だった。びくびくしながら歩いていたリネは、途中で、廊下にうっすらと橙色がさしていることに気づいて足を止める。よく見ると、少し先の扉の下から明かりがもれていた。こんな夜中にどうして明かりがついているのか気になって、リネは忍び足で扉の近くまで歩いた。壁にぴったり背をくっつけて、扉の方を見る。すると、内側からくぐもった声が聞こえてきた。神父様と、神父様より年上の人の声だった。神父様でない方の声も記憶にはあった。確か、もっと偉い人のはずだ。
 最初は何を言っているのか聞きとれなかったが、二人の声はだんだん大きくなっていった。しだいに、内容が聞きとれるようになって――そのなかに、「処分」だとか「殺す」だとか物騒な単語が混じりはじめたので、リネは息をのんで聞き耳を立てた。
 そして、次の瞬間、凍りついた。
「あれを見ただろう! あれはまさしく、魔女の力だ! あの娘は魔女だったのだよ! 魔女は、魔女の生まれかわりは、殺さねばならん!」
――私だ。
 リネの脳裏に、音符が弾けるように、言葉が浮かんだ。
 魔女。魔女の生まれ変わり。私のことだ。

 私、ころされるんだ。

 気付けば彼女は、走りだしていた。足音で、盗み聞きがばれるかもしれないとは思わなかった。ころされる、しんじゃう、そんな言葉で心は埋まってしまっていて、別のことが浮かぶ隙間など、ありはしなかった。
 ひたすら走った。泣きながら駆けた。リネは無意識のうちに、ある場所を目指していた。
 両足が鈍く痛んできたころ、彼女はようやく立ち止まった。客人用の部屋の前。リネはそのまま扉にすがりついて、がんがんと叩いた。小さな拳で、何度も叩いた。何かを叫んだ気もするが、よく覚えていない。すぐに、扉が開いて、リネは後ろへ大きくよろめいた。あけられた扉の向こうから、旅人の少年がひょっこりと顔を出す。夜だというのに、昼間と同じ旅装束のままだ。彼は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしている少女を見て、ぎょっとしていた。
「きみは……どうしたんだ、こんな夜中に。怖い夢でも見たか?」
 リネは激しく首を振った。
「ゆめ、じゃない。ゆめじゃないよ。ゆめだったらよかったけど、ちがうよ。足がすごく痛いもん」
 しゃくりあげながら言い――固まっている少年にとどめを刺すように、叫んだ。「わたし、死んじゃうんだ! 殺されちゃうんだ! 殺されちゃうよぉっ!」
 突然、狂ったように泣き叫びはじめたリネを見て、少年は唖然としていた。けれど、彼が短く息を吸うと、黒茶の両目に理性的な光が宿る。彼はそのまま、少し慌てた様子で、それでもやさしくリネを抱きしめてきた。あやすように、ぽんぽんと背中を叩かれる。
「ほら、落ちついて。とりあえず……そうだな、俺の部屋に入りな」
 リネは何度もこくこくとうなずいた。されるがままに部屋にひっぱりこまれる。扉が閉まると、寝台の脇に置かれた手燭の火が際立って、あたりが少しだけ明るくなったように感じた。穏やかな静寂に包まれているうち、リネの気持ちも落ちついてきた。それを見計らったかのように、少年はリネを寝台に座らせる。彼女は、そわそわと部屋を見回した。
「……ひとがきたら、どうしよう」
 少年は、すぐには何も言わなかった。が、やがて「どうして、殺されるって思ったんだ?」と訊いてきた。リネはいやいやをするように、首を振る。
「思ったんじゃないの。神父さまたちがお話してたの。私は、魔女の生まれかわりだから、殺さなきゃいけないって」
「――その話を聞いたのは……ここへ逃げてくる前か?」
「うん」
 リネが鼻をすすりながらうなずくと、少年はほっと表情を緩めた。
「だったら大丈夫。きみを殺すような怖い人は、すぐには来ないよ。だから、な? まずは、何があったのか聞かせてくれ」
 目線を合わせて、穏やかにそう言う彼にうながされて、口を開いた。今日の夜あったことを――それ以前に、自分が水を操る不思議な力を持っているのだということを、すべてすなおに打ち明けてしまった。怖かったけれど、彼なら受け入れてくれるのではないかとも、思っていた。
 少年はリネの話を聞いているあいだ、ずっと難しい顔をしていた。話が終わってからも、じっと考えこんでいる。リネが身をかたくして座っていると、彼は手をのばして、彼女の頭をなでた。
「よく、がんばった」
 少年は、笑顔でそう言う。リネは唇をかんでうなずいた。やっとひっこんだはずの涙が、また、じわりとにじむ。こぼれおちた雫をぬぐいさっていると、少年の顔が真剣なものになった。
「でも、きみの話が本当なら、ここにいるのは危険すぎる。きみのそれは、いわゆる『まじない』とも違うみたいだし」
 少年はさらに小声で何かを続けたが、リネには聞きとれなかった。「そんな」と、リネは涙声で叫ぶ。思わず、少年の上着の裾をつかんでいた。
「どうしよう。私、どうしたらいいの」
「そうだな――」
 少年は少し考え込んで、何かを言おうとした。けれど、すぐに、はっとして口をつぐむ。何を言おうとしたのか、と尋ねようとしたリネの口をすばやくふさいできた。びっくりしたリネは、叫びだしかけたが、「静かに!」という鋭いささやき声におされて黙りこむ。見上げた少年は、今までにないくらい怖い顔で扉をにらんでいた。口をふさいでいた手を離すと、今度は強めにリネの腕をひっぱった。彼女はされるがままになり、大きなもののむこうに押しやられた。それは、少年の鞄だとすぐ気づく。
 一瞬あと、扉が乱暴に叩かれた。少年が息をのみ、リネは飛び上がりそうになる。
「旅の方。よろしいですかな」
「はい」
 少年は鋭い声で返事をした。扉が開き、神父様が部屋に入ってくる。その顔は、とても怖くて、けれど悲しそうでもあった。
「夜分遅くに申し訳ない。実は、お尋ねしたいことがありましてな。――青い髪の娘が、こちらに来ていないでしょうか」
 つかのま、沈黙が降りる。少年はふっと息を吐いてから、首を振った。
「あの子ですか。……実は先程、泣きながら部屋を訪ねてきまして。何かにおびえている様子でしたので、少しお話をして落ちつかせてから、帰しました」
「そう、ですか」
 神父様はほほえんだ。どことなく、薄っぺらなほほえみだった。法衣の裾をひるがえして、踵を返す。その背中に、少年が声をかけた。
「失礼ですが、神父様」
 お互いが、どんな顔をしていたのか、リネは知らない。けれど、手燭の火が揺らめいて、空気がはりつめたのはわかった。胸の前で手を合わせる。
「気になっていたのですが、どうしてそのようなものを持ち歩いているのです?……『それ』は聖職者たるあなたが持っていていいものでは、ないはずだ」
「……護身用、ですよ」
 神父様の言葉と、カチャ、と金属が動く音が重なった。見えないのに、ぞっとする。リネは頭を抱えてうずくまった。少年の声が続く。
「護身用ですか。加えて、外にそれだけの護衛をひかえさせているとなると、あなたはよほど、危険な目にあっているのですね。それなのに、得体の知れない旅人を教会に受け入れるのですか」
 しん、とあたりが静まりかえった。身じろぎの音すらしない。恐怖と好奇心でぐちゃぐちゃになりそうな胸を押さえたリネは、目だけで鞄のむこうをうかがおうとする。が、そのとき、何かが勢いよく覆いかぶさってきて、リネの視界をふさいだ。
 ぱんっ、と激しい乾いた音がしたのは、直後のことだった。突然のことに驚いたリネは小さな悲鳴を上げてしまう。しまった、と思ったが、彼女の小さな声は、別の声にかき消されていた。
「ぐぅっ……!」
 低い、押し殺された声。今まで聞いたことのない響きだったが、間違いなく、旅の少年のものだ。彼が自分の上に覆いかぶさったのだと気づいたリネは、息をのんだ。そして、部屋のなかが少しだけ焦げ臭いと思った。
 かちゃり――と、また金属が鳴る。
「旅の方。あなたのそばにいる娘を、渡していただきたい」
 神父様が言った。リネが知っている神父様の声ではなかった。とても冷たくて恐ろしかった。リネの上から離れようとしない少年は、顔を歪めたまま彼を振り返る。
「お断り、します。銃を向けてくる神父に、女の子を預けるなんて馬鹿なまね、できるわけが、ないでしょう」
 全身がこわばった。リネは泣きたくなった。そのときになってようやく、神父様が銃を向けたのだと、自分をかばった少年が撃たれたのだと、気付いた。
 神父様の声が揺れる。冷たい笑い声だ。
「そうですか。ならば、しかたがありませんね」
 また、かたい音がした。そして、続く発砲の音。
「がっ……!」
「旅人さん!」
 明らかに撃たれたとわかるうめき声にたえきれず、リネは叫んでしまった。「もういい! やめてよ!」と叫んだが、彼はどこうとしなかった。銃が鳴る。さらには神父様の後ろの方からか、重々しい足音も聞こえてきた。
 リネが青ざめていると、少年のささやきが降ってくる。
「かばん、を」
「え?」
「そこの、鞄を、抱きかかえてくれ。思いっきり」
 突然そう言われて戸惑いながらも、リネは言われたとおりに鞄を強く抱いた。リネにとっては大きくて、重かったが、がんばって抱きしめた。これでいい? と問うように少年を見上げたリネは、息が止まりそうな思いを味わった。
 目に映ったのは、はっとするほど鮮やかな空色だった。黒茶だったはずの少年の両目が、空の青に変わっていたのだ。
 どうして、と問おうとしたリネだが、「目を閉じて!」という少年の厳しい声にさえぎられて、目をつむる。そのとき、強烈な白い光がまぶたの裏に射しこんできた。
「きゃあっ!」
 リネの悲鳴に、大人たちのうめき声が重なる。そして、リネが目を開けたころには、彼女は鞄と一緒に少年に抱えられていて――当の少年は、荷物と少女を横抱きにしたまま部屋を飛び出し、勢いよく教会を飛び出していた。

   その後、何がどうなったのか、リネはあまり覚えていない。気づけば、今まで見たこともない緑がたくさんある場所で下ろされていた。それが、国の外だとわかるのは、少し時間が経ってからのことである。今はただ、夜の森で呆然と空を見ていた。けれど、草のうえに何かが落ちる音と、低いうめき声に叩き起こされる。リネ羽音のした方を見て、血の気がひいてゆくのを感じた。
「旅人さん!」
 悲鳴をあげたリネは、少年にすがりついた。彼は肩を押さえてうずくまっている。銃で撃たれたときのものと思われる穴以外にも、いつの間にかたくさんの傷をつくっていて、あちこちから血が流れていた。痛々しい姿に、リネの表情も歪む。
「ど、どうしよう! 血が、血がいっぱい……!」
「大丈夫」
 涙目でうろたえるリネを、静かなかすれ声がひきとめた。少年は荒い呼吸をしながらも、にっと笑う。
「俺は大丈夫だよ。ひとよりも、ずっと頑丈なんだ。……ああ、でも、さすがに、少し休みたい。だから、きみ、その間は見張っていてくれないか」
 傷だらけの少年に頼まれたリネは、何度もこくこくうなずいて、さっそく暗闇をにらみつける。その横で、少年が静かに目を閉じた。

 しばらくすると、少年が目をさました。不思議なことに、目をさますころには、彼の傷の多くがふさがっていて、当然、血も止まっていた。リネは首をかしげながらも「ひとより頑丈」って本当なんだな、というくらいにしか思わなかった。一方少年は、リネに挨拶して座りなおすと、頭をかきながら走ってきた方を振り返る。
「あーあ、逃げだしてきちまった。もうあそこには入れないな。これからどうしよう」
 呟きながら、彼は横目でリネを見る。いつの間にか、瞳の色は黒に戻っていた。リネはその目を見つめながら、じっと考えこんだ。
「うーん。まずは、きみをどこか安心できる場所まで連れていかないと……」
「嫌」
 少年の言葉をさえぎって、リネは強く言った。そして、だだをこねるように首を振る。驚き戸惑っている少年を、思いっきりにらんだ。
「嫌。私、旅人さんと一緒に行きたい」
「ええっ!?」
 少年がひっくり返そうなほど派手に驚き、声を上げた。
「そ、それはちょっと! 俺なんて、旅から旅への根なし草だぞ!? 何が起きるかわからないし! 危ないし!」
 それから少年は、つらつらと旅の危険を説いていったのだが、リネは半分ほど聞き流していた。つん、と唇をとがらせて、変わらない自分の主張を口にする。
「嫌な思いとか、怖い思いとか、今までもたくさんしてきたもん。だから平気。旅人さんと一緒にいた方が絶対楽しいし、安心できるもん」
「うっ……おいおい……」
 少年は眉をしかめてのけぞった。それでもリネがゆずらないとわかると、降参とばかりに両手をあげてかぶりを振る。
「わかった、わかった。しばらくは連れてってやるよ。ただし、やっぱり危ないと思ったら、街に預けるからな」
「本当!?」
 リネは目を輝かせる。少年がうなずくのを確かめると、手を叩いて飛び跳ねた。条件付きとはいえ、旅への同行を許してもらった彼女は、満面の笑みで少年にすがりつく。少年は、しかたないなあというような微笑を浮かべ、リネの頭をなでていた。
 彼女が落ちついてから、少年は鞄の中身を点検した。そして問題ないとわかると、「じゃあ、とりあえずは山を降りるぞ」と言って、リネの手をとり立ち上がる。そして歩き出そうとして――ふっと、足を止めた。「そういえば」と呟いて、振り返る。
「まだ、名前を言ってなかったな。俺、ソラっていうんだ。君は?」
 旅の少年、ソラから水を向けられたリネは、目を瞬いたあと、胸をそらして元気よく名乗る。
「私はね、リネだよ!」
「そうか、そうか。リネか。これから……どのくらいの間になるかわからないけど、よろしくな、リネ」
 ソラが笑顔で手を差しだしてくる。リネもまた、笑顔でその手をにぎりかえした。
「うん。よろしくね、ソラ!」
 二人は再び歩き出す。
 東の空を見上げてみれば、光が淡く広がって、夜の紺碧を明けの紫色に変えていた。