幕間 信徒の国<風の章>

「おおっと、こりゃ絶景」
 そそり立つ岩山の途中。斜面に沿って建つ家いえの影を見つめていた少年は、おどけたふうに呟いた。肩からさげた鞄を持ちなおし、腰に吊った革の入れ物を叩く。かたい感触が伝わってきて、それはいつものように、彼の安堵と苦笑を誘った。
 少年の名は、ソラといった。故あって故郷を追い出された彼は、銃とわずかな荷物を持って、各地を放浪していた。今、わざわざ険しい山をのぼってきたのは、山の上にたつ都市国家の噂を聞きつけたからである。彼の旅に目的地はない。道行きはいつも、情報と好奇心で決まるのだ。
 ソラは、山肌からこぶのように突き出た岩をまたぎこえて、国の入口まで歩いた。大きな門の前には、簡素な鎧を着込んだ番兵が立っていて、いくらか質問をしてきた。彼らの問いに正直に答えつつも、ソラは番兵たちを観察する。彼らは右手で槍を立てているが、穂先はきちんととがっていなかった。番兵に通される際に、ちらりと彼らの腰のあたりに視線をやれば、予想どおり、鈍く光る銃がさしこまれている。こんなところにも銃は出回っているんだな、と、詮無いことを考えつつ、二人の番兵に愛想よく笑いかけ、別れを告げた。
 よそ者に敵意を向けてくるでもない、それどころか親切な番兵だった。親しげな振舞いを見せても問題はないだろう。――今のところは。
 山の斜面に沿ってうねりながら、石の道が最奥の大きな建物にまで続いている。尖塔のような屋根、教会だろうかとソラは首をひねる。人通りは少なくないが、喧騒といえるほどやかましい音はなく、いるだけで心が静まるような不思議な空気が流れていた。
「――のまれる前に情報収集、と」
 ソラは、両手で己の頬を打った。

 一言で言えば、奇妙な国だった。常に、どこかしらから神様をたたえる文言が聞こえてくる。今もまた、風に乗り讃美歌が流れてきた。たたずんでいた屋台で、イモの粉を練った生地に肉と野菜を巻いたものを買ったソラは、かすかに響く歌を聞く。
 あそこはまがまがしい宗教国家だ、と、誰かが騒いでいたことを思い出す。まがまがしいかどうかはともかくとして、信仰の強い国であることは、間違いなさそうだ。道端のあちらこちらで祈りを捧げている人を見る。聖職者と思しき、裾の長い服を着た人々も、多かった。しばらく街を見物し、食事を済ませたソラは、息を吐く。唇についていたソースを、親指でぬぐって舐めた。
「さて、どうしようか……まずは泊まるところを探した方がいいかな」
 二日か三日、見回って、何事もなければそのまま出国すればいい。気楽に考えたソラは、祈りの言葉を背にして歩を進めた。
 ところが、いくら探しても宿屋らしきものが見つからない。首をひねっているうちに、日が少しずつ傾きはじめ、人通りも少なくなってきた。石畳に落ちる四角い影は、きた頃よりも濃くなっている。いよいよ、どうしようか、と考えたとき。彼は、前を歩く人影に気づいた。
「……青?」
 思わず呟いてしまったのは、その人――少女の、髪の色だった。水色の、細い糸のような長い髪が、歩調に合わせて踊っている。遊んでいるつもりなのか真剣なのか、影をまたぎながら歩く少女は、とかく変わった風貌だった。けれども服装から察するに、この国の人間ではあるのだろう。ソラは、さりげないふうを装って、少女に近づいた。
「きみ、そこのきみ」
 意識して大きな声を出すと、少女はおもしろいほど飛び上がって振り向いた。彼を見上げた小さな顔は、こわばっている。さすがに申し訳なくなって、ソラは苦笑を広げた。
「ああ、ごめん。驚かせちゃったな」
 少女は、北の海のような青い瞳を見開いている。きっと、よそ者が珍しいのだ。不審者扱いされる前に、本題に入ることにした。
「きみ、この国の子だよな。どこか、宿屋を知らないかな。それっぽい場所がなかなか見つからないから、困ってるんだけど」
「……宿屋さん? それって、えと、おとまりする場所、ってことだよね?」
 ソラがうなずけば、少女は小さくうなった。しばらく眉根を寄せて考えこんでいた彼女は、何かに思い至ったのか、ぱっと顔を上げる。
「あのね。お客さんはね、みんな教会に泊まるんだよ。だから、宿屋さんはないんだよ」
「えっ?……そうなのか?」
 ソラは、頭をかいた。なるほど、教会はそういう用途にも使われているわけである。つくづく、奇妙な国だ。ソラが、あきらめたように教会での交渉の算段をしていると、軽い音が聞こえてくる。見れば、少女が顔を輝かせて、両手を打っていた。
「あのね、あのね。私、教会で暮らしてるの。ときどきね、お手伝いもするの。だから私が案内してあげる」
 ソラは目をみはった。子どもとはいえ、教会に暮らしている人が一緒なら、交渉もやりやすいかもしれない。望外の幸運、というやつだ。
「そりゃ、助かるよ。ありがとう」
 笑みを広げてそう言えば、少女は頬を染めた。嬉しそうに飛び跳ねて、「こっち!」と駆けだす彼女に温かい視線を送り、ソラもまた、歩きだした。

 たどり着いたのは、やはり、街の入口から尖塔のように見えていた教会だった。少女は元気よく転がって、両開きの扉の先へと入ってゆく。偶然だろうが、入ってすぐのところで、人と出くわした。初老の穏やかな目をしたその男は、居心地が悪くなるほど静謐な空気をまとっている。
「神父さま! お客さまです!」
 勢いづいて、少女が早口で言った。男は軽く目を見開いて、彼女の背後で突っ立っていたソラを見た。彼はひとまず、軽く会釈するにとどめておく。
――ここからどうするか、と様々な考えを巡らせていたソラだったが、結局それは不要だった。司祭であるらしい男は、あっさりと来訪者を受け入れたのである。ソラが思っているよりも、こういう外来者が多いのかもしれなかった。
「よかったね、旅人さん」
 少女が振り返り、笑う。花がほころぶような笑顔を前に、ソラも相好を崩して、やわらかな薄青色の頭をなでた。
 やがて、教会で務めている修道士と思しき女性が現れて、ソラは客室に通された。客室、とはいえ、教会の一室を整えただけのもの。寝台と棚くらいしかない殺風景な部屋だが、ソラは、かすかにこもった熱を感じ、安堵の息を吐いた。
 振り返って感謝の言葉を告げれば、修道士は淡白な礼だけをして去ってゆく。静かに扉が閉まったあと、ソラは寝台に腰かけて荷を解いた。端に置かれた鞄を尻目に腰をまさぐる。黒光りする物体を取り出すと、中の様子を簡単に確かめた。小さな金属の塊を抜きとり、やわらかい布の巻きついた棒を差し込む。しばらく、目をこらしてそれ――拳銃の内側をのぞいていたソラは、ひととおりの掃除が済むと、目を窓の方へ向ける。
 うす青い空を、ちぎれ雲が泳いでいる。いつもどおりの空の下、広がる国の異質さに、旅人は眉根を寄せる。
 ソラの目から見ても、奇特な部分の多い国だ。それでも平和そうに見えた。街も、教会の内部も。しかし――ソラは、ちりちりと鳥肌の立つ腕を、そっと押さえた。
 教会の中には、異様な空気が漂っている。口で説明できない不快感。それは、不安や胸騒ぎにもよく似たものだった。異様な空気の大もとを辿ろうと目を閉じれば、青い髪の少女の姿がまなうらに浮かぶ。
「まさか、な」
 いくら見慣れぬ外見だからといって、教会をどうこうするような力はないと思う。『力』でいうなら、彼女よりもむしろ、ソラの方が災禍の塊だろう。ならば、なんなのか。
「あー、くそ!」
 泥沼のような思考にはまりかけていることに気づき、彼は大きく腕を伸ばした。そのまま寝台にあおむけになると、誰もいないのをいいことに、深いため息をつく。
「考えてもしかたないな。とりあえずちょっと寝てから、中を見せてもらえないか頼んでみるか」
 ほの暗い秘密を抱いた教会の片隅で、少年はぽつりと呟いた。

 ソラの計画は、いきなり頓挫した。この日は修道士も司祭もお務めに忙しかったようで、見学を断られてしまったのである。やんわりとした語調ではあったし、日を改めて、とは言われたので、よそ者を近づけたくないというわけではなさそうだ。ともあれ、現地の人の営みを乱してしまうのはよくない。ソラはすなおに部屋にこもり、呼ばれて夕食をご一緒して、その後まもなく床についたのであった。
――彼はいつも、日の出の少し前に目をさます。どこの国であろうと習慣は変わらない。辺境に佇む教会の一室、まだうす青い闇の支配する薄明の時間に、ソラは身を起こした。軽く体をほぐしながら今日の予定について考える。荷物の点検をしたあとに、武器の状態を丁寧にみる。そうしている間に、太陽は建物の陰から顔を出し、扉の向こうからは歌声が聞こえてきた。
 扉が軽やかに叩かれたのは、歌声がやんで少ししたころである。修道士たちとはまるで違う叩き方を不思議に思いつつ、少年は入室をうながした。元気よく入ってきたのは、見覚えがある水色髪の少女。
「おはよう、旅人さん! 朝ごはんだよー!」
 彼女は、朝から笑顔を弾けさせた。つられてソラも、笑みをこぼす。
「ああ、昨日の……。そっか、きみが来てくれたんだな。ありがとう」
 声を返したソラは、寝台から立ち上がると、武器を突っこんだばかりのホルスターを腰にさげた。体にかかる金属の重みを噛みしめていたとき、「ねえねえ。それ、なんなの?」と、無邪気な声がする。戸口の方から、少女が目をくりくりさせて見ていた。返答に窮したソラは、少し、考えこむ。子どもは純粋だ。純粋すぎて、言葉を選ぶということを知らない。――おおいに困るが、それはまた、愛情によって育てられた子どものいいところでもあるのだ。下手なことを、吹き込みたくはなかった。だからソラは、短く答えたのである。「身を守るための道具が入っているんだよ」と。
 少女は不思議そうな顔をした。納得していないだろう。けれど、それ以上の追及もしてこなかった。

 少し気になったので司祭に尋ねてみたのだが、実際、彼が司祭を務めている間に、数人の来客があったという。それ以前も、外からの客が皆無というわけではないようだった。だとしても人々にとって外の人間とは珍しいものらしく、ソラが教会の周辺を歩き回っている間にも、好奇の視線が注がれた。子どもたちなどは、彼の足にじゃれついてきたり、なんの実験なのか頭に葉っぱを積んでいったりした。
 中でもとりわけ、ソラに興味を示したのは、あの少女だった。少年の姿が見えるなり飛んできて、あれこれと質問を重ねていく。司祭や修道士の苦笑を買っていたが、ソラとしては仲良くしてくれる人がいるのは、ありがたかった。
 滞在三日目のことである。ソラは少女に旅の話をして、少女はソラに教会内部を案内する、というかたちで、二人は一緒に歩いていた。列柱廊を奥へ奥へと進んでいくと、やがて大きな扉に行きあたる。少女は息を弾ませて振り返った。
「この先はね、れいはいどうなの!」
「礼拝堂? 勝手に入っちゃっていいのか、それ」
「いいの! 神父様が、いいって言ってくださったの!」
 少女は目をきらきらさせている。こちらの目がくらみそうな輝きに苦笑いをこぼしつつ、「ならいいか」とソラは笑った。……幼い女の子の相手を、自分が楽しんで請け負っていることに気づいて、少し、驚いた。
 すべすべに磨き上げられた木の表面に、白く小さな手がかかる。重厚な両開きの扉は、少しして、ゆっくりと内側に開いた。薄闇に凝る冷気が、二人を静かに出迎える。元気よく走る少女の後について、ソラも足を踏み入れた。
 かすかな火のみが、暗がりに揺れている。茫洋と照らし出された壁の装飾に、ソラは息をのんだ。壁面には、草花をかたどったような紋章、壁と天井には神話の一場面だろうか、人や、異形の姿が描かれている。
「ここがれいはいどうだけど、今はお祈りの時間じゃないから、誰もいないよ」
 少女の笑い声が、高い天井に反響して、降ってくる。ソラはうなずきつつ、礼拝堂の中を観察した。周囲の装飾には目をみはる豪華さがあるが、対して部屋じたいは殺風景だ。簡素な木の椅子が数脚、そして正面には演台。だから自然と、視線は壁画へ釘付けになる。
「これって」
「神様のお話だよ。神様が、悪い魔女をやっつけているところ」
「……魔女?」
 眉がぴくりと跳ねあがる。
――この大陸で、魔女といえば、それそのものがおとぎ話のような存在だ。強大にして不可思議な力を持ちつつも、人目に触れず、ひそやかに暮らしている女たち。どこの国にも人にもつかず、ましてやこの大陸の神に添うことなどあり得ぬ、孤高を貫く気高き者。
 壁画では、背の高い男が、片手に松明を持ち、もう一方の手で持った剣(つるぎ)を、かしずく女の首につきつけている、ように見えた。なるだけ力を表に出さず――それが魔女たちだと、ソラの知る書物には書かれていた。この魔女は、彼らの知る魔女と同一なのか、そんな疑念が頭をもたげたが、答えを出せる物も、答えを持っている人も、この国には存在しないだろう。
 彼には、確信があったのだ。
「君が知る魔女は、この『魔女』だけなのか?」
 黒茶の瞳に見つめられた少女が、首をかしげつつも「うん」と言った。言葉は明るく、けれど静かに続く。
「『魔女』は『魔女』だけだよ。って、神父さまが言っていたの。それとも、外の世界にはほかの魔女がいるの?」

 その後、ソラは少女から、子供向けの本を借りた。半日かけて読みこんでみても、やはり釈然としない。魔女の姿が違うこともそうなのだが、それ以前にどこか、目に見えないところに違和感が潜んでいるような気がした。
――小さなささくれを残しつつも、滞在期間は平穏に過ぎてゆく。時に少女と談笑し、時に教会の行事を見学し、あるときには街をぶらぶら散策した。そういしているうちに日は過ぎて、目立った異常はないと判断したソラは、いよいよ出発を翌日に控えた夜を迎えていた。
 荷物を整え、旅衣のまま、早くに就寝した。そのはずなのに、目がさめる。少年は、掛布を引き寄せながら、胸を押さえた。いつもどおり、そのはずなのに、妙にざわつく。ソラは少し顔をしかめてから、すぐ身を起こした。――これは、『獣』の本能が警鐘を鳴らしている証だ。すなおに従っておけば、まず間違いない。暗青色の闇のなか、革に覆われた金属を、手もとに手繰り寄せる。寝台脇の手燭に、そっと、火を灯した。
 沈黙が落ちる。虫の音すらも聞こえぬ夜。はりつめた空気を打ち破ったのは、扉を叩く音だった。いつになく乱暴な叩かれ方。たすけて、と、誰かが叫ぶ。ソラは緊張に顔をこわばらせながらも、足早に歩み寄る。極限まで息を殺して、扉を開いた。
 暗い廊下の先にいたのは、目に馴染んだ少女。しかし、昼間のような明るさはない。水色のきれいな髪は乱れてあちこちに跳ねており、顔はまっさお、おまけに涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。細い肩を震わせた彼女は、ぬれた瞳で彼を見上げた。
「きみは……どうしたんだ、こんな夜中に。怖い夢でも見たか?」
 尋常でない様子に驚きつつ、言葉を選ぶ。なぜだか喉がひりついた。渦巻く汚水に似た予感を抱いて立つ旅人の前で、少女は強く、首を振る。
「ゆめ、じない。ゆめじゃないよ。ゆめだったらよかったけど、ちがうよ。足がすごく痛いもん」
 少女は喉をひくつかせながらも、口早にまくし立てる。ソラが何かを言う前に、その意味を察する前に、少女は細い腕を伸ばして、すがってきた。

「わたし、死んじゃうんだ! 殺されちゃうんだ! 殺されちゃうよぉっ!」

 狂乱の叫びは、ひどく遠いもののように感じた。しかし、呆然としている場合ではなかった。少女の泣きじゃくる姿、自傷するように強く頭を抱えこむ姿を見て、ソラは我に返る。殺されるかもしれない、という恐怖は、彼も知っている。しかし、はなからそれを受け入れていた彼と、今まで人の邪気を知らずに育った少女とでは、心境も違うだろう。
 ならば、余計なことは言わない。あの日自分がしてもらえなかったことをしなければ、それだけを考えた。
 しゃくりあげる少女をそっと抱きしめたソラは、震える背中を叩いて、なだめる。すぐにとはいかなかったが、やがて、少しだけ静まった。
「ほら、落ちついて。とりあえず……そうだな、俺の部屋に入りな」
 うながせば、幸い拒絶はされなかった。そのまま少女を部屋に引きこんだソラは、手早く扉を閉めてしまう。ほのかな火明かりのなか、ひとまず少女を座らせた。小さな体の震えも、しだいにおさまってくる。
「……ひとがきたら、どうしよう」
 ぽつりとこぼれた呟きに、ソラは眉をひそめる。喉を引き裂きそうな叫びが、耳の奥によみがえった。
「どうして、殺されるって思ったんだ?」
「思ったんじゃないの。神父さまたちがお話してたの。私は、魔女の生まれかわりだから、殺さなきゃいけないって」
 ソラは目を見開いた。ため息がこぼれる。――魔女。心にささくれを残した言葉と、こんなところでまみえることになろうとは。
 けれど、内心の苦みは表に出さず、ソラは穏やかに、少女の両目をのぞきこんだ。
「――その話を聞いたのは……ここへ逃げてくる前か?」
「うん」
「だったら大丈夫。きみを殺すような怖い人は、すぐには来ないよ。だから、な? まずは、何があったのか聞かせてくれ」
 いつも、旅の話をしているときと同じ。変わらないほほ笑みを意識すれば、少女はこっくりうなずいて、口を開いた。
「あのね。私ね。……水を、うごかせるの」
 ソラは息をのんだ。見えないところで、歯車が動き出している気がした。

 少女の告白は、信じられないような内容だった。こんな状況でなければ、真に受けてはいなかっただろう。水を自在に操る力。それを夕食時に、人々に見られてしまったのだという。その後、夜中に目が覚めて、行った先で司祭たちの話を聞いてしまったわけだ。自然を従えるという異能に、ソラは魔女を連想した。しかし、今は不安にさせるべきではない。不吉な想像を振り切って、ソラは少女を見おろした。身を固くしている小さな彼女の頭をなでる。
「よく、がんばった」とささやけば、少女は小さく体を震わせた。
「でも、きみの話が本当なら、ここにいるのは危険すぎる。きみのそれは、いわゆる『まじない』とも違うみたいだし」
……このままでは確実に、殺される。この子の言葉は、大げさでもなんでもない。思考は音をともなう。声は落としたつもりだったが、少女の顔がさあっと不安に彩られた。
「どうしよう。私、どうしたらいいの」
「そうだな――」
 ソラは眉根を寄せる。思考の奥に沈みかけた意識はしかし、かすかな音に引きあげられた。廊下に響く、靴音。
 よほど妙な顔をしていたのだろう。少女が、不思議そうに見上げてくる。いつもどおりに声を出しかけた彼女の口を慌てて覆い、咎めた。戸惑った様子の少女をよそに、ソラは扉をにらみつける。足音は、確実に、向かってきていた。ソラはいったん少女を手放すと、勢いよく腕をひいて、自分の鞄の後ろに押しやった。今のように丸まっていてくれれば、姿は隠れるはずである。
 荒々しい音を立てて、扉が開かれる。暗がりに、白い法衣がひるがえる。男の顔は、怖いほど浮き立って見えた。
「旅の方。よろしいですかな」
「はい」
 靴が鳴る。双眸は、どこまでも冷たかった。
「夜分遅くに申し訳ない。実は、お尋ねしたいことがありましてな。――青い髪の娘が、こちらに来ていないでしょうか」
 ソラは黙った。司祭も静かに答えを待っている。少年は、否定のしぐさをしてみせた。
「あの子ですか。……実は先程、泣きながら部屋を訪ねてきまして。何かにおびえている様子でしたので、少しお話をして落ちつかせてから、帰しました」
「そう、ですか」
 司祭はほほ笑む。凪いだ海のように穏やかだった微笑は、今や薄っぺらな仮面でしかない。
 法衣のすそがひるがえる。遠ざかろうとする男の背を、ソラはじっとにらんでいた。彼の目は、自然と男の頭からそらされ、腰の方へ動く。とらえたのは、法衣の下で鈍く光る黒いもの。それにのびる、しわの多い指先だ。
「失礼ですが、神父様」ソラの静かな呼び声に、司祭はゆるりと振り向いた。ソラは、いつでも得物が抜けるよう、身構える。
「気になっていたのですが、どうしてそのようなものを持ち歩いているのです?……『それ』は聖職者たるあなたが持っていていいものでは、ないはずだ」
「……護身用、ですよ」
 返る答えは静かだ。けれど、色のない指は、たしかに黒いものへ触れた。かすかな金属音。消えてしまいそうなほどに小さなそれに、ソラの耳は騙されない。ソラは、さらに、あることに気づいた。さりげない所作で、司祭の向こう側を見やる。姿は見えない。けれど、そこにいる。兵士の数は、十は下らないだろう。感じる気配とかすかな物音が、存在を証明している。
「護身用ですか。加えて、外にそれだけの護衛をひかえさせているとなると、あなたはよほど、危険な目にあっているのですね。それなのに、得体の知れない旅人を教会に受け入れるのですか」
 冷や汗が背をぬらす。後ろに壁があるからか、闇夜の中にいるからか。それとも――前にいる男の両目が、底なし沼のように、光をのみこみ沈んだからか。ソラが慄然としている間に、司祭は銃を抜いた。その口は、鞄の影からわずかに見える、小さな頭をとらえていた。ソラはほぞを噛み、考えるより先に動いていた。
 破裂音が虚空で弾ける。とっさに少女へ覆いかぶさったソラは、鈍い衝撃と強烈な熱に、息を詰まらせた。泣きそうな少女と目が合う。
「旅の方。あなたのそばにいる娘を、渡していただきたい」
 無機質な声が降る。ソラは歯を食いしばって痛みを殺し、振り返った。
「お断り、します。銃を向けてくる神父に、女の子を預けるなんて馬鹿なまね、できるわけが、ないでしょう」
「そうですか。ならば、しかたがありませんね」
 次の弾が装てんされているのは感じたが、ソラはそこから動けなかった。今動けば、狙われるのは無力な少女だ。それだけは避けなければ、と身を固くした。
「がっ……!」
 無抵抗のまま二発目を受ける。重ねられる痛みに耐えきれず、つかのま、うずくまった。
「旅人さん! もういい! やめてよっ!」
 少女の涙声が、ソラを揺さぶる。薄目を開き、汗をぬぐった彼は、まっすぐに少女を見おろした。にじり寄る男の気配を感じつつ、小さな娘に顔を寄せる。
「かばん、を」
「え?」
「そこの、鞄を、抱きかかえてくれ。思いっきり」
 少女の目が戸惑いに泳ぐ。しかし、すぐに言うとおりにしてくれた。小さな手で、ぎゅうっと鞄を抱きしめて見上げる少女にほほ笑みかえすと、ソラは目を閉じ――すぐ開く。
 体の芯に、熱が宿る。血が目覚める。幻と呼ばれる獣の血だ。
「目を閉じて!」
 口を開きかけた少女を鋭く制し、凝った力を解き放つ。空駆ける獣の力は光となって、教会の一角を白く覆った。人々の絶叫を聞きながら、ソラは少女と鞄を抱きかかえると、己の記憶と勘だけを頼りに、客室を飛び出した。

 ソラは、獣の本能に任せ、夜の街を疾駆した。明かりの消えた通りに人の影はなく、けれど、背後から気配が迫ってくる。行動の早い神父様だ、と、口の中で舌打ちをこぼした。何度か蛇行する道に合わせて曲がった。気配はいよいよ近づいて、明確な形をもった。人の声と金属音を聞きながら、ソラは脇に抱えた少女を見おろす。少女は、状況の変化についていけないのか、ぼうっとしていた。
 しかたのないことだ。今はとにかく、逃げることだけを考えるしかなかった。
 星月のほのかな光の下、影はうごめき、飛びかかってくる。人影を確かめもせず、ソラは振り向きざまに足を空にすべらせた。回し蹴りは先頭を走っていた者の腰に直撃して、その者は突き飛ばされた。彼に巻きこまれた数人が、うめき声をあげ、倒れ伏す。その隙にソラはまた、石畳を蹴った。しかし直後、鈍い衝撃が腹を突く。すぐ横の建物の陰に身をひそめていた者が、発砲したのだ。ソラは、色づいた瞳を銃口に向けると、走りながらも指で虚空を弾く。白い光が細くのびて、音もなく銃口を焼き切った。風が細い音を立てて渦巻く。
 なるべく人は殺したくなかった。ゆえに防戦一方になり、気づけば体中に傷が走っていた。新しい傷口からにじんだ血が、足首をつたう。他人事のようにそれをながめたソラは、ふっと苦笑した。
 選択の代償と思えば、傷のひとつふたつは気にならない。それに、この程度で彼が死ぬことは、あり得なかった。
 呆然自失の状態から立ち直れない少女を気遣いながら、ソラは時に地面を、時に屋根の上を駆けてゆく。門が遠くに見えたところで、入国初日に見た番兵と出会ってしまった。彼らはためらいながらも、槍ではなく銃を抜く。ソラは、ふ、と口もとを綻ばせ、つま先で軽く地を蹴った。跳躍を警戒した兵たちの視線が、わずかに上向く。ソラは逆に身を沈めると――「おりゃっ!」と声を上げ、兵の一人の顔面に、強烈な頭突きをお見舞いした。鈍い声を上げた番兵が、たたらを踏む。その隙に少年は、彼らの間をすり抜けて、慌ただしく門をくぐった。

 果てのない濃紺が、天を覆い広がっている。ずっと見上げていると、しだいに自身まで、虚無のなかへ吸い込まれてしまうような、そんな気がした。軽いめまいをおぼえたソラは、上げていた顔を下ろす。ここは、もう、国の外だ。傾斜が一時的にゆるくなる場所であり、数日前にソラが通った場所でもある。国を脱したからか、追手がくる気配はない。ぼうっとしたままの少女をやわらかい草の上に下ろしたソラは、自身もほっと息をつく。とたん、忘れていた痛みが、全身をむしばみはじめた。膝から力が抜けて、何もできずその場に崩れ落ちる。
「うっ……」
 喉の奥から声が漏れる。とたんに息苦しくなって、ひとり悪態をつくこともできなくなった。しばらくそうしていると、高い悲鳴が聞こえてくる。青い髪の少女が、泣きそうな顔ですがりついてきた。
「ど、どうしよう! 血が、血がいっぱい……!」
「大丈夫」
 かろうじて声をしぼりだしたソラは、少女にいびつな笑みを向けた。
「俺は大丈夫だよ。ひとよりも、ずっと頑丈なんだ。……ああ、でも、さすがに、少し休みたい。だから、きみ、その間は見張っていてくれないか」
 おそらく、しばらく危険はないだろう。まだ、ソラのまわりには天族の力の残り香が漂っている。野生の獣は警戒して、寄りつきもしないはずだ。そんなことを知りもしない少女は、背筋を伸ばしてうなずいた。与えられた役目にやる気を出して、暗闇をにらみはじめる。小さな背中を見ているうち、ソラは深淵に吸われるように、眠りへと落ちていった。

 どのくらい寝たのかはわからない。目を覚ましたときには、あたりがわずかに明るくなっていた。薄暗がりのなか、己の肌を見て、傷がないことを確かめる。それから少女に、挨拶とお礼をした。少女はソラの体を見て、心底不思議そうにしていたが、どういうことかと尋ねてはこなかった。彼はただ、曖昧な笑みを浮かべる。来た道を振り返り、国の影が見えないことに妙なむなしさを抱く。胸の内で、そっと苦みを噛みしめた。
「あーあ、逃げだしてきちまった。もうあそこには入れないな。これからどうしよう」
 独語して、ソラは少女を一瞥した。勢いで連れ出してきてしまった彼女をどうするか、それが一番の問題だ。頭の中で案を弾きだしては消し、考える。
「うーん。まずは、きみをどこか安心できる場所まで連れていかないと……」
「嫌」
 考えていたことが、口に出てしまったらしい。少女の方からすぐに言葉が飛んできた。ソラは最初、それを音として認識していた。しかし、音が言葉であり、それが拒絶だとわかると、考える姿勢のまま固まった。そのまま硬直してしまいそうな頭を持ちあげる。唇をとがらせている少女が、改めて、首を振った。
「嫌。私、旅人さんと一緒に行きたい」
「ええっ!?」
 ソラは、冗談でなくのけ反った。いくらなんでも、年端もいかぬ女の子を連れ回すのは無理がある。ただでさえ危ない上に、ソラは、普通の人とはまた別の危険も、背負っているのだ。時分に流れる獣の血、それが人に知られるたびに、石を持って追われる身である。そんな事態に、彼女を巻き込みたくはなかった。
「そ、それはちょっと! 俺なんて、旅から旅への根なし草だぞ!? 何が起きるかわからないし! 危ないし!」
 慌てて手を振ったソラは、旅の危険をつらつらと並べ立てる。真意は口にしなかった。少年がごまかしていることに気づいたわけではなかろうが、少女はふてくされた表情のまま、微動だにしない。彼の言葉が途切れたところで、つんと、口を挟んできた。
「嫌な思いとか、怖い思いとか、今までもたくさんしてきたもん。だから平気。旅人さんと一緒にいた方が絶対楽しいし、安心できるもん」
「うっ……おいおい……」
 まったく譲る気配はない。ソラはがっくりうなだれた。聞きわけのよい子だと思っていたが、なかなかどうして、かたくなだ。
 けれど――同時に思う。
 彼女はきっと、今までずっと、ひとりだったのだ。国の中で育っても、人の愛に囲まれていても、真の意味では孤独のままだった。ひととは違う力を持っているから。
 自分の抱く異質を隠して生きる、その寂しさは、ソラもよく知っていた。だからこそ、少女の意志を退けることが、できなかった。顔を上げると、少女はまだ、まっすぐな目でソラを見つめてきている。しかたがない――と笑った忌み子の少年は、頑固者に向かって降参のしぐさをしてみせた。
「わかった、わかった。しばらくは連れてってやるよ。ただし、やっぱり危ないと思ったら、街に預けるからな」
「本当!?」
 顔を輝かせる少女に、ソラが静かなうなずきを返す。彼女は、飛び上がって喜んだ。無邪気に飛びついてくる少女に苦笑しながら、ソラは小さな頭をなでる。
 話がついたところで、ソラは荷物を点検した。何も落としていないことを確かめると、少女の手をとり、重い腰を上げる。ひとまず彼女のために、いろいろ準備をしなければならないだろう。「じゃあ、とりあえずは山を降りるぞ」と声をかければ、少女はすなおに返事をした。そのまま歩き出そうとして、けれど、ふっとあることを思い出して足を止める。
「そういえば」呟いて、振り向いて。名前を知らぬ、怪訝そうな少女に笑いかけた。「まだ、名前を言ってなかったな。俺、ソラっていうんだ。君は?」
 少女は目を瞬いたのち、得意気に胸をそらす。
「私はね、リネだよ!」
「そうか、そうか。リネか。これから……どのくらいの間になるかわからないけど、よろしくな、リネ」
 元気な名乗りに、ほっとした。ソラは、少女――リネにむかって、手をさし出す。リネは、すぐに手をにぎりかえしてきた。
「うん。よろしくね、ソラ!」
 手をつないだまま、二人はそうっと歩き出す。夜の名残を残す影が彼らを見送り、曙を告げる薄い光が、二人をやさしく出迎えた。
 似て非なる孤独を抱えた彼らの旅は、こうしてひそやかに始まった。旅路がやがて、歴史にうもれた数々の秘密へ向かってうねっていくことなど、このときの彼らは、想像していなかった。